参議院選挙

 
 参議院選挙。気乗りはしなかった(積極的に応援したい人はいなかった)ものの、とにかく自民党独走を食い止めたい気持ちで投票に行ってくる。民主党候補に入れたのだが、接戦に競り負けて落選。比例区みどりの風に入れるもののあえなく落選。自民党の独走は予想通りの結果で、リベラルにとっては長い長いトンネルが続きそうで暗澹とした気分でニュースを見続ける。
 
 

蘇盈之Soo Wincci「不應該勇敢」など

 
 ちょうど1か月ぶりで書く。1か月どうしていたかと言うと、授業の合間に音楽共有サイト、画像共有サイト、動画共有サイトなどを見ながら暮らしていた。要するに趣味の世界にはまって暮らしていたわけである。
 
 年甲斐もなくはまってしまったが、一つよく分かったことがある。今の若者はごく手近にこのような写真共有サイト(Tumblr, Pinterest, We Heart itなど)や音楽共有サイト(8Track, SoundCloudなど)があって、その気にさえなれば世界中の画像や動画や音楽を手にすることができるということである。しかも無料で、である。
 
 このことはたぶん革命的なことであると思う。Facebookは言葉の壁があって、なかなか国境を越えることができないが、写真共有サイトや音楽共有サイトは何の壁もないので、たやすく国境を越えて世界中の音楽や画像、動画に接することができる。本当に簡単なクリック一つでである。この革命性は驚異的である。
 
 この趣味の世界における国境を越えた「世界性」というべきか、ファーストフードのように好きな写真や音楽をクリック一つで手に入れられるお手軽さは、おそらくこれまでの資本主義的なありかたに大きな変更を加える可能性があるように思える。FacebookTwitterがアラブの民主化をもたらしたように、資本主義的な秩序に対する民主化の作用を及ぼすのではないかという気がする。特に趣味の世界で、この変化は急速に進行していて、お金や地域などの現実的な格差を越えた民主化を進行させている。この共有サイトによる趣味の世界化と民主化が、どこまでどのように作用を及ぼしていくのかとても興味がある。学問の世界にも着実にこのような世界化と民主化とは押し寄せているように思えるが、日本ではまだ微温的で革命の波が押し寄せている感じはしない。
 
 ただ、1か月趣味の世界にはまっていたので、少々情報疲れしてきたのも確かである。この膨大な趣味情報の波に押し寄せられていると、そのうち疲れて来るのは確かである。Facebookも1年、2年とやっているとだんだん疲れて来るのと同じである。共有サイトへの疲れがまたどのような作用を及ぼすのかも興味深いところである。
 
 というわけで、音楽共有サイトから拾ってきた最近はまっている曲を2つほど。
 
 一つは蘇盈之(Soo Wincci)というマレーシアの華人系歌手の歌う「不應該勇敢」。この蘇盈之Wincciという歌手はもともとマレーシアのミス・ワールドだったのが歌手に転身したものらしい。イギリスで留学して、博士学位も持っているし、語学も英語、マレーシア語、北京語、広東語、福建語、フランス語、日本語、韓国語、ができるという恐ろしいスーパーウーマンである。
 
 
 
 ついでにもう一つ、韓国のヒップホップグループの、Supreme Teamの「배가 불렀지(腹がいっぱい)」という曲。Supreme Teamは2009年にデビューして、ソウル歌謡大賞でヒップホップ賞を受賞した実力派のグループ。2011年に発表されたクインシー・ジョーンズに捧げられたアルバムの中の1曲。
 
 
 

リンジー・スターリング『Crystallize』

 
 アメリカの踊るヴァイオリニスト、リンジースターリングの曲『Crystallize』。雪原の中でバイオリンを弾く姿は幻想的で、You Tubeでの視聴回数が6000万回を越えて、2012年のトップ8位に入ったのだそうである。
 
 この曲がとても印象的だったのは、その演奏の幻想的な美しさにもあるが、それとは別にヴァイオリンを民俗楽器として使うのがアメリカにもあったことにショックを受けたためでもある。
 
 この曲はポップス(何でもダブステップと言う音楽ジャンルらしい)としてヴァイオリンを使っているわけだが、この源流はヴァイオリンを民俗楽器として使う所にあるようである。踊りながらヴァイオリンを弾くのはそのスタイルの流れだと思われる。民俗楽器としてヴァイオリンを使う時には「フィデル」と呼ばれて、区別されるものらしい。
 
 このフィデルについては、以前沖縄を舞台にした映画『ナビィの恋』において、アイルランド出身のフィデル弾きの男性が登場して、力強いリズムで踊りながらダイナミックにヴァイオリンを弾く姿に強い印象を受けた記憶がある。
 
 その時フィデルについて知ったのだが、男性の力強いステップとヴァイオリンの旋律が何とも言えぬ調和をもっていてすばらしかった。それで男性的なイメージを持っていたのだが、このリンジースターリングの演奏を聞いたら、また女性的な優雅で幻想的なフィデルもあるのだと知ったのである。
 
 それと、『ナビィの恋』でフィデルアイルランドの伝統的な民俗音楽かと何となく思っていたのを、このリンジースターリングの曲で違うことを知らされたこともある。調べた所、アメリカでもヴァイオリンを民俗楽器として使うことがあったもののようだ。その流れで、ポップスとしてヴァイオリンを使うこのような曲が出てきたものだろう。
 
 ちなみにダブステップと言う音楽ジャンルもイギリス発祥で、移民の多い南ロンドンで発生したものらしい。そのような音楽ジャンルの混合から、リンジースターリングの音楽は生まれているわけで、とても興味深いカルチュラル・スタディ的な脈絡を持っているものと考えられるのである。
 
 

 
 

NHKスペシャル 尼崎殺人死体遺棄事件

 
 NHKで未解決事件の連続特集番組を組んでいて、そのFile No.3として尼崎殺人死体遺棄事件をやっていて思わず見てしまう。例の角田美代子容疑者による複数の家族が崩壊に追い込まれ、暴力や虐待の末に7人が死亡、3人が行方不明となった事件である。
 
 この番組を思わず集中して見てしまったが、見てからの後味はきわめて悪い。最悪と言ってもいいくらいである。このような事件の発生する病理と、それを何もできない関係者たち――警察を含めての――の圧倒的な無力さのためである。
 
 この事件自体の後味もきわめて悪いものである。すぐに連想されるのは園子音監督の『冷たい熱帯魚』での連続殺人事件のことである。怪物的な犯罪者と、それに立ち向かうこともできず言いなりになり事件の加害者となり巻き込まれていく無力な男の物語である。尼崎事件の犯罪の構図は『冷たい熱帯魚』のそれととても似通っている。
 
 怪物的な主犯の人物(尼崎事件の場合は角田美代子という女性だが)とそれの言いなりになって巻き込まれ、家族どおしが虐待と分断支配を受け入れてしまう一般市民たち。そして彼ら╱彼女らは自らの家族を虐待する加害者となっていく。角田が直接に手を下すわけではない。その圧倒的な支配力とマインドコントロールによって、家族は分断され、相互に虐待をするよう仕向けられていくのである。
 
 子供たちは角田が自分のマンションに引き取って、好き放題をさせている。毎日ゲームやパチンコをしているように描かれていた。角田は親を軽蔑するように仕向け、親と子供をも分断してしまう。実に巧妙というか、人間の心を支配するマインドコントロールの天才と言うべきである。
 
 きわめて後味が悪いのは、その言うがままになる家族たちの無力さもさることながら、その過程を薄々気づいている近所の人々や、友人などが、何もできないでしまう無力さ、そして警察に何度も訴えに行っているにもかかわらず、警察も家族内のいざこざには介入できないという民事不介入の建前から何もできないという無力さの重畳している構図のためである。
 
 この暴力と監禁の過程で、家族および近隣の住民は30回以上警察に通報しているという。それを「家族内の事件への不介入」という建前によって、あるいは被害届が出されないと動けないという形式主義によって黙殺してしまう警察のあり方は、やはり無力さの変形といっていいものである。
 
 この一般市民から警察までを貫いている無力さの連鎖と重畳は、圧倒的である。どうしてこんなに日本の市民社会は無力さに支配されているのだろうか。角田容疑者がヤクザなどの暴力をちらつかせると、その前に何をすることもできない圧倒的な無力の連鎖がそこにはある。
 
 客観的に見れば角田容疑者の行使する暴力などはたかがしれたものだし、それを制御することは可能なはずである。しかし、関係者は誰もそんな発想は取らないし、面倒なことは関わらずに結局黙殺してしまうのである。
 
 例えば、韓国映画の『アジョシ』などのハードアクションものの構図も、この尼崎事件によく似ている。暴力組織に狙われ家族崩壊を迎える少女を、ただ近隣の知り合いというだけの男(ウォン・ビン)が命がけで救うというハードアクション映画である。
 
 この韓国映画では、その怪物的な悪に向かって立ち向かうウォン・ビンの超人的な活躍が描かれている。もちろんこの映画でも一般市民は組織の前に無力であり、臓器を取られたり、人身売買されたりと、好き放題な暴力支配のもとに少年少女たちが監禁されている。しかし、この映画のメッセージは明らかであり、その怪物的な暴力に、一般市民(この場合はウォン・ビン)は持てる能力をすべて発揮して立ち向かうべきだという強いメッセージである。
 
 ウォン・ビンは個人的な身体能力で立ち向かったのだが、立ち向かう手段は他にもあるはずである。政治的・社会的な資源を総動員して、われわれはこの怪物的な悪に立ち向かうべきだったのである。
 
 警察が無力で形式主義を盾に取るならば、実力と金と言論とネットなどの力で、立ち向かうべきだったし、あるいは個人でも命がけの勝負を挑むべきだったのである。(『冷たい熱帯魚』の場合には最後に命がけの反抗を企てている)。それができなかったのは、社会の敗北と捉えるべきだし、われわれの持つ社会的資源があまりに乏しいことを示しているのである。
 
 なぜわれわれ日本の市民はこんなにも無力で、政治的・社会的な資源にこんなにも乏しいのか、それをこの尼崎事件は問いかけていると考えられる。
 

日本のサービス過剰について

 
 今日、たまたまシンガポール在住の日本人の書いた文章を読んだのだが、そこで筆者はシンガポールは経済的には日本以上の先進都市国家であるのにもかかわらず、サービス業は今一つだということを書いていた。三ツ星ホテルなどのサービスですら、今一つで満足できる水準ではないとのこと。筆者の解釈によれば、多民族国家であるシンガポールにおいて、サービスは汎用的なもの、つまり誰にでも通じるものでなければならないので、ある程度以上のサービスはしないということ。そこでは日本のような丁寧なサービスはいらないという解釈だった。
 
 それを読んで、はたと思い出したことがある。実は私も同じような経験をして、同じような感想を抱いたことがあったのだった。
 
 韓国から帰国して、呆れそうになったことの一つが、この日本のサービス業の過剰とも言えるサービスと、それに伴うとんでもない価格の高さだった。例を挙げればきりがないが、床屋や美容院、タクシー料金、新幹線料金、高速道路料金、等はとんでもなく高い料金設定で驚くほどであった。映画料金も同様、あまりに高い料金設定である。新聞料金も高い。そうそう住民税も高すぎる。
 
 例えば新聞を宅配にすると、雨の降る日にはビニールで包装して配達する。今はよくなったようだが、コンピューターを買えば不必要なソフトがこれでもかという位ついてくる。携帯電話に入ってもあれこれのサービスで付加料金がかかってくる。こういう不必要なサービスがいくつも加重されることで、本来の価格に色々なプラスアルファがついて、高価格になってしまうのである。
 
 基本的な生活に関わるサービスもとても高い。水道料、ガス料金、電気料、携帯電話、コンピューターのプロバイダ料金、そういった生活の基本に関わるサービスが揃いも揃って高いので、派生的にすべてのサービスが高くなっていくのだろう。
 
 過剰なサービスに慣れると、人々はそれが当然となって、自ら過剰なサービスを求めるようになる。自分の首を絞めているのにすぎないのに、である。上に挙げたような種類の料金はみな独占、寡占状態のものなので、それを糊塗するために過剰なサービスを考案して、高価格に設定しているとしか思えない。
 
 こういうサービスは(だんだん腹が立ってきた)、消費者を馬鹿にしたものであって、「お客様は神様」という名分の下に、日本の消費者は過剰なサービスによって利益を侵害されているのである。グローバル化とデフレのお蔭で、少し以前よりはよくなったようにも思えるが、しかし過剰サービスの害はいまだに猖獗を極めている。
 
 日本では過剰な政治サービスや行政サービス、大学や高校などの教育サービス、受験サービス、等々が当然のことになって、それをしないと自ら求めてくる人々が沢山いる。警察サービスも過剰なサービスの代表である。社会の治安を守るという名目の下に過剰なサービスがきわだっている。そうそう、車検のサービスも同じ。安全を名目として、とんでもない料金を払わせられている。
 
 このような過剰なサービスと、それを求める人々との悪循環を止めなければ、いつまで経っても合理的で自立した社会は生まれてきそうにもない。企業と行政、警察等に二重三重に過剰サービスされ、過剰保護され、それを当然としている社会に未来はないのだ。ちなみに、教育サービスも同様で、二重三重に手を取り足を取り、のサービスをいくらしたところで、グローバル人材など生まれてきそうにもない。
 
 過剰サービスに抗して、生きていくのはこの社会ではなかなか難しいことである。しかし、一歩一歩過剰サービスを排していくことの中にしか、この社会の合理的な未来はないように思える。過剰サービスではなく、本質的なサービスだけに特化した道が求められているのである。教育も同じ。
 

備忘のために

 
 日本に帰国したのはもう9年前のことになるが、その時のことは実はあまり思い出したくない記憶である。帰国してすぐに混乱状態に陥り、しばらく(というよりも数年単位で)その混乱状態が続いたからである。帰国とは元いた土地に戻ることであるために、すぐ再適応できるものと大多数の人は思っているようだが、そうではない。外国に適応するのと同様の長い再適応期間が必要となるのである。
 
 今考えると、韓国に暮らしたのが7年であったのだが、日本に再適応するのにだいたい同じくらいかかったように思える。その間は基本的に混乱状態にあったわけである。
 
 今は客観的に言えるけれど、その間の状態はとても苦しいものであった。おそらく雅子様適応障害と似たような症状だと思うが、日本の色々な風景や人間や街並みなどに強い違和感を感じながら暮らした。日本語にもとても強い違和感があった。日本語を聞きたくない時にはインターネットで韓国の放送を聞いたりしたものである。
 
 なぜこんなことを書き留めておくのかと言うと、このような混乱状態はほとんど収まったが、時折再帰することがある。最初の頃の混乱状態に近い状態に置かれると、その時の症状がふたたびぶり返すのである。最近、そのような体験があって、また混乱状態に近い状態に行きそうになった。
 
 まあだいぶ免疫ができてきたので、もう重い混乱状態にまで進むことはないけれど、時折そんな軽い症状は現れるのである。
 
             ☆
 
 このような体験で、一つ知見を得たことがある。それは帰国者の心理に想像力が及ぶようになったことである。戦後、数百万人単位の人が内地に帰国し、彼ら彼女らは「引揚者」と呼ばれた。引揚者たちは社会集団として大きく取り上げられることはないが、実は戦後の日本社会において大きな社会的比重を占めている集団である。
 
 彼ら彼女らは、都市の境界的な部分で、あるいは僻地の農村の開拓に携わって、戦後すぐには闇市のマーケットなどにも深く関わって暮らしてきた。彼ら彼女らの本国での再適応は、日本社会のもっとも境界的な部分から始められなければならなかったのである。彼ら彼女らの内面はあまり記録に残されていないが、強い違和感と不適応があっただろうことは想像に難くない。
 
 日野啓三の小説には、そのような引揚者の不適応と絶望感についての記述が散見する。彼は朝鮮から引き揚げた引揚者であった。投げやりな青春時代の思いや、戦後十数年ぶりで訪れたソウルの風物への思いなど、引揚者の心理はよく書きこまれている。
 
 彼は戦後十数年ぶりで訪れたソウル訪問をきっかけにして、自らの人生を変える。その地で出会った女性を呼び寄せるために、日本人の妻と別れ、面倒な書類手続きを経て、韓国人女性を呼び寄せるのである。そのことは失われた時間を取り戻す行為であったことは容易に想像できる。
 
 彼にとって引き揚げ以後の戦後の時間は、本来のあるべき土地と切り離され、あるべき人生を失った時間であったわけである。そのことを取り戻すために、彼は韓国人女性を呼び寄せ、別の人生を生きようとする。
 
 その心理はよく理解できる。あるべき土地や時間を置き忘れてきた感覚、どこか自分の土地や時間を生きていない感覚。そのような感覚の中で、引揚者の戦後は営まれてきたのである。戦後の日本や東アジアには、そのような自らの土地や時間を置き忘れてきた人々たちが大勢存在し、彼ら彼女らのそのような境界的な存在によって、戦後という時間は織りなされてきたのであった。各国、各地域の引揚者たちの存在は、戦後東アジア史の隠れた大きな領域を形成している。
 
 

『セデック・バレ』第1部

 
 ようやく念願かなって『セデック・バレ』の第1部を見てくる。言うまでもないが、台湾の霧社事件という原住民による日本人支配への反乱事件を題材としたものである。2011年に台湾で上映され大きな話題となったものだが、日本での上映がようやく今年になって行われるようになったのである。
 
 この『セデック・バレ』については語りたいことが多くあるが、映画的な部分は省くことにする。大がかりなセットを使って、大作映画を作った台湾映画の力量にとても感心した。また、興味深いことにこの映画のスタッフにはかなりの日本人と韓国人が入っている。つまり、この映画は台湾映画ではあるものの、台湾だけをターゲットとしたものではなくて、東アジアを意識して作られたものなのである。もちろん出て来る日本人たちは、みな本当の日本人が演じている。
 
 『セデック・バレ』で一番印象的だったのが、日本人と台湾人の間での様々な要素を全体的に描こうとしている点であった。例えば夫が台湾人で妻が日本人という家庭や、逆に日本人の夫と原住民の妻という家庭も描かれている。その間で葛藤する台湾人原住民の警官の姿も詳しく描かれている。
 
 また、日本人に蜂起する原住民たちも一枚岩というわけではなく、蜂起を主張する主戦派と、そんなことをしても部族が全滅してしまうだけという慎重派とがリアリティをもって描かれている。その間で葛藤する人物たちの様子も細かに描かれているのだった。
 
 このような様々な要素を全体的に描こうとしていることを見る時、納得することがあった。この映画は、植民地時期の台湾社会(原住民と漢族の関係も描かれている)を全体的な構想で描こうとしているのであり、その意味で「歴史認識」に関わる映画なのだということであった。そう、この映画は何よりも「歴史認識」に関わる映画なのである。
 
 同じウェイ・ダーション監督の前作『海角七号』も植民地期の台湾と現在の台湾とをオーバーラップさせて、ある意味で歴史的なテーマを扱ってはいたが、よりそれを全体化して、植民地期の台湾社会を詳細に、リアリティをもって描こうとしているのだということが納得されたのである。
 
 このことは実は東アジアでの「歴史認識」を扱った映画たちの流れの中にこの映画もあることを示している。中国では『南京!南京!』で同じような全体的な「歴史認識」を扱った映画を作っている。そこでも中国の民衆だけに偏らず、ラーベなどの外国人、そして日本人軍人の内面にも踏み込んだ全体的で総合的な「歴史認識」を行おうとしているたいへん意欲的な作品であった。
 
 振り返ればこのような「歴史認識」のテーマは、実は韓流映画から始まっているように思われる。『ブラザーフッド』は、北朝鮮南朝鮮との全体性として、韓国の現代史を捉えようとしたものであったし、そのような朝鮮半島を北と南の対立を乗り越えた全体性として表象しようという作品は『シュリ』や『共同警備区域JSA』以来枚挙にいとまがない。それらも現代史の「歴史認識」を問い返す映画たちであったわけである。 
 
 このような東アジアの「歴史認識」を問い返し、更新するような試みが意欲的に続けられている中で、さて日本の現状を見てみると寒々しいことこの上ない。タイミングよくというべきか、橋本徹氏などの極端な「歴史認識」が語られているタイミングであるからもっとそう感じられるが、日本には残念ながら戦前と戦後とを連続し、それを全体的な構想の下で語りなおそうというような「歴史認識」の映画はいまだに存在していない。
 
 東アジアでの意欲的な「歴史認識」映画の流行を見るにつけ、その寒々しい思いは増してこざるをえない。日本が敗戦国であり、「歴史認識」問題に特にアポリアがあるというのは言い訳にすぎない。韓国での北と南の対立は命の奪い合いをしたような熾烈なものであり、中国の「歴史認識」も愛国心を相対化し、外国人や日本人にさえも開かれた「歴史認識」を持とうとしている。
 
 日本の「歴史認識」が、加藤典洋の言うように(『敗戦後論』)、ジキル氏とハイド氏が同じ人格の中で分裂しているという指摘通り、その同じ人格の中での分裂を総合し、全体化するのはとても難しい。橋本徹氏という「ジキル氏」があけすけに「正論」を語ったために、同じ「ハイド氏」もまた正論を語らざるをえないような状況であり、その間の溝はいつまでも埋まることはない。しかし、東アジアの「歴史認識」映画を見れば、日本もまたそのような「ジキル氏」と「ハイド氏」の歴史認識は相互に統合され、全体化される道を模索するべきだという思いを強くした。
 
 戦前の植民地支配を美化するわけでもなく、また全面否定するわけでもなく、また第2次世界大戦を聖戦として考えるのでもなく、また不義の戦争として全面否定するわけでもないような、そのような「歴史認識」は不可能だろうか。戦後の歴史を全肯定するのでもなく、また全否定するのでもない、そのような「歴史認識」。左でも右でもない、それらを統合しうるような「歴史認識」はこの日本では不可能なのだろうか。不可能なわけはない。『セデック・バレ』を始めとした東アジアの映画たちはその作業を見事にやっているのだから。