日本のサービス過剰について

 
 今日、たまたまシンガポール在住の日本人の書いた文章を読んだのだが、そこで筆者はシンガポールは経済的には日本以上の先進都市国家であるのにもかかわらず、サービス業は今一つだということを書いていた。三ツ星ホテルなどのサービスですら、今一つで満足できる水準ではないとのこと。筆者の解釈によれば、多民族国家であるシンガポールにおいて、サービスは汎用的なもの、つまり誰にでも通じるものでなければならないので、ある程度以上のサービスはしないということ。そこでは日本のような丁寧なサービスはいらないという解釈だった。
 
 それを読んで、はたと思い出したことがある。実は私も同じような経験をして、同じような感想を抱いたことがあったのだった。
 
 韓国から帰国して、呆れそうになったことの一つが、この日本のサービス業の過剰とも言えるサービスと、それに伴うとんでもない価格の高さだった。例を挙げればきりがないが、床屋や美容院、タクシー料金、新幹線料金、高速道路料金、等はとんでもなく高い料金設定で驚くほどであった。映画料金も同様、あまりに高い料金設定である。新聞料金も高い。そうそう住民税も高すぎる。
 
 例えば新聞を宅配にすると、雨の降る日にはビニールで包装して配達する。今はよくなったようだが、コンピューターを買えば不必要なソフトがこれでもかという位ついてくる。携帯電話に入ってもあれこれのサービスで付加料金がかかってくる。こういう不必要なサービスがいくつも加重されることで、本来の価格に色々なプラスアルファがついて、高価格になってしまうのである。
 
 基本的な生活に関わるサービスもとても高い。水道料、ガス料金、電気料、携帯電話、コンピューターのプロバイダ料金、そういった生活の基本に関わるサービスが揃いも揃って高いので、派生的にすべてのサービスが高くなっていくのだろう。
 
 過剰なサービスに慣れると、人々はそれが当然となって、自ら過剰なサービスを求めるようになる。自分の首を絞めているのにすぎないのに、である。上に挙げたような種類の料金はみな独占、寡占状態のものなので、それを糊塗するために過剰なサービスを考案して、高価格に設定しているとしか思えない。
 
 こういうサービスは(だんだん腹が立ってきた)、消費者を馬鹿にしたものであって、「お客様は神様」という名分の下に、日本の消費者は過剰なサービスによって利益を侵害されているのである。グローバル化とデフレのお蔭で、少し以前よりはよくなったようにも思えるが、しかし過剰サービスの害はいまだに猖獗を極めている。
 
 日本では過剰な政治サービスや行政サービス、大学や高校などの教育サービス、受験サービス、等々が当然のことになって、それをしないと自ら求めてくる人々が沢山いる。警察サービスも過剰なサービスの代表である。社会の治安を守るという名目の下に過剰なサービスがきわだっている。そうそう、車検のサービスも同じ。安全を名目として、とんでもない料金を払わせられている。
 
 このような過剰なサービスと、それを求める人々との悪循環を止めなければ、いつまで経っても合理的で自立した社会は生まれてきそうにもない。企業と行政、警察等に二重三重に過剰サービスされ、過剰保護され、それを当然としている社会に未来はないのだ。ちなみに、教育サービスも同様で、二重三重に手を取り足を取り、のサービスをいくらしたところで、グローバル人材など生まれてきそうにもない。
 
 過剰サービスに抗して、生きていくのはこの社会ではなかなか難しいことである。しかし、一歩一歩過剰サービスを排していくことの中にしか、この社会の合理的な未来はないように思える。過剰サービスではなく、本質的なサービスだけに特化した道が求められているのである。教育も同じ。