憲法へのクーデターの後に

 
 国家もまた人間と同様に性格を持ち、キャラクターを持ち、過去史を持って存在している。過去の歴史をどう把握して、それを未来の行動にどのように反映するのか、という所にその国家の個性や性格、そして理念は現れる。通常は、憲法とはそのような国家の性格や理念を体現しているものと理解される。
 
 日本の憲法もまた、そのような国家の過去史を踏まえて、性格や理念を体現したものということは変わらない。しかし、今回の集団的自衛権閣議決定に見られるのは、国家の憲法という枠組みはそのままにして、その内実をなし崩しに変質させようという企図であり、それが意味するものはとても大きい。
 
 実はこの閣議決定が意味しているのは、戦後の憲法に対する理念的な次元での抵抗であり、国家の理念あるいは性格を(憲法を変えることなしに)変質させようという企図であり、非合法な憲法に対するクーデターである。
 
 戦後の憲法の理念は、アメリカに強制されたものであれ、日本人が自主的に受け入れたものであれ、はっきりした輪郭を持っている。それは「非戦」という理念であり、太平洋戦争などの過去史を踏まえたものであった。それは日本の国家としての行動を(未来の行動を)明確に規定するものとして、日本の国家としてのキャラクターを規定しているものとして存在していた。
 
 しかし、その「非戦」という理念は、現実政治のリアリティの中では決して強い理念ではありえなかったし、また戦後70年近い時間が流れるにつれて、その内実が希薄なものとなってきたことは疑えない。
 
 理念を持ち続けることは難しいことである。共産主義という崇高な理念も現実の政治の中では70数年しか続かなかったし、それと比べるとちょうど戦後70年ぶりに同じような理念の崩壊の現場に立ち会っていると言えるのかもしれない。
 
 この理念的なクーデターは、国家の性格あるいはキャラクターを変えるものとして、日本の国家としての行動を変えていくことは明らかである。そしてそれは近隣諸国や、アメリカとの関係をどのように変質させていくものとなるのか、きわめて注意深く見て行かなければならないと思われる。
 
 このクーデターが、「非戦」という理念への不満というよりも、近隣諸国との関係への不満(韓国・中国との関係への不満)、アメリカとの関係に対する不満に、その内実を持っていることは確かである。そこでの国家としての立ち位置について、この理念的クーデターは大きな変更を加えようとしているのである。このクーデター後の日本の国家としての立ち位置について、深い関心を持って注視していかなければならない。