日本の学生たちへの不満

 
 以前、韓国で教えた時、ある映画を見せて感想を聞いたことがあった。その時、女子大学院生があまりに感情移入してしまって、泣きながら感想を述べ続けたことがある。もちろん「かわいそう」とか「健気だ」などという紋切り型の感想ではなく、誰それが、人物関係の中で、これこれこういう決断をして、それを受け止めてくれた夫の内心を思うと、涙が止まらない云々と言った、ちゃんと論理立てて述べた感想であった。こんな経験はその時だけだが、鮮やかな記憶として残っている。
 
 その後、日本で教えるようになって、日本でも頻繁に映画を見せて感想を問うているが、このような反応にお目にかかったことは一度もない。というよりも、感想を述べよと言うと、だいたい出ないし、出ても紋切り型のものが多い。意欲的な学生がたまにいることはいるが、そのような学生は「感想」を述べるのではなく、フェミニズム的な視点から見てどうだとか、演技について、演出についてどうだと分析的に述べる傾向にある。
 
 つまり言いたいのは、日本の学生たちは「感想」を述べるという当たり前のことが、ひどく不得手であるということである。自分の感動を受けた部分を論理立てて、誰がどうしてどういう行動をとったため、どのように感じた、という単純なことが、とても苦手なようなのである。
 
 もちろん私も日本人だから、彼ら/彼女らの気持ちは理解できる。「感想」というのは個人的なものだから、あまり人前で述べるようなものではないし、まして授業で多くの学生たちの前で述べるのに適当ではない。友達の前ならまだしも……。ということなのだろうが、韓国の授業の時と比べると面白みに欠けるのはどうしようもない。
 
 日本の学生の言葉、特に授業でしゃべる言葉はたいへん儀礼的である。つまり当たり障りのない、妥当なことを述べようとするのである。何か正解のようなものがあって、(褒められる?間違いのない?正解)そのような言葉を探そうとするのである。それが思いつかない学生は沈黙を守るのである。
 
 この儀礼的な言葉は、授業だけの問題ではなく、日本社会全般の問題であると考えた方が分かりやすい。つまり日本の社会全般が儀礼的な言葉と儀礼的な人間関係からなっている、と考えた方が問題はよく見えてくる。日本の家族、学校、そして社会、は儀礼的な言葉によって成り立っており、それを妥当なものとして見なしているということである。むしろ儀礼的な関係をこなし、儀礼的な言葉を操れるようになることを「大人」らしいことと見なしているふしがある。このような社会の中で、自分の内心を、きちんと論理的に語る言葉は出てくることが難しいのである。
 
 この頃、大学で討論式の授業をせよ、ということで、グローバルな討論式授業を導入しようという動きがあるが、大学だけでこのような試みをしても、効果は薄いことは明らかである。家庭の中で、あるいは学校(小中高)の中で、また社会の中で、自分の「内面」を語る作業や、語る言葉がまず先行しなければならないことは言うまでもない。そしてそれはおそらく至難の技であることも明らかである。ほとんど革命に等しい社会的変革がそこに起こらなければならないだろうし、個人主体が、家族や学校や社会を前にして対抗できるように自立(吉本隆明)しなければならないのであるから。
 
 しかしそれは案外難しくないものかもしれない。幼時から愛情を受けて、自分の言葉で語らせることが可能ならば、それはすぐにでも可能なことであるのだから。もし、外国人ベビーシッターが一般化して、自分の言葉で語れるような世代が生まれれば、それは近い将来可能となるかもしれない。帰国子女らが特殊なケースではなく、もう少しメジャーな存在となるならば、あるいは日本の国内で帰国子女と同様の経験ができるようになれば、その問題は解決できるのである。そのような世代が生まれることに期待したいものである。