日本の悲劇の根源(2)

 
 日本について考えるのは実は厄介なことである。先にも書いたように外来の文化・文明は二重の構造をとって受容され、本来の一義的な理念や意味が変容されていく。そのような受容は、日本の置かれた地政学的な位置から来ていると考えるしかない。
 
 この日本の地政学的な位置ということも、厄介な問題を含んでいる。日本が単に「帝国」の周辺的な位置にあった、ということをそれは意味していないからである。周辺的な位置にある国々は「帝国」との間で直接的でシビアな関係を持つことになる。軍事的な侵略を含んだ相互の関係の中で、その関係は直接的な対抗関係、従属関係という形を取る。近代的な概念で言えば、「帝国―植民地」関係と言うことができる。
 
 翻って日本は「帝国」の周辺部に位置しながら、そのような直接的でシビアな対抗・従属関係を持つことを免れた。それはもちろん海峡を間にはさんだ地政学的な偶然によっている。そのため、文明・文化の受容も選択的で、自由度の高いものとなったと考えられる。
 
 ただ、日本の立場から考える時、「帝国」の周辺に位置するということは、ある種の軍事的・外交的な危機感と感受されたことは言えると思う。そのため日本史を通底しているのは、「帝国」の文物をいかに効率よく早く吸収するか、キャッチアップするかという衝迫であり、特に中国で統一帝国が現れた時(隋・唐時代が特に顕著)、その危機感をキャッチアップの動機としたことは想像に難くない。つまり、明治維新以降の西欧文明へのキャッチアップは、中国の統一帝国へのキャッチアップにその原型を求めることができるのである。
 
 このような日本の地政学的な位置をだから「周辺的」と言うことはできない。それはもう少し別な言葉で表現されなければならない。まだ何と呼ぶべきかはっきりしないが、柄谷行人はこの地政学的位置について「亜周辺」という言葉を用いている。「準周辺」とも言いうるだろうし、「間接的周辺」とも言えるかもしれない。
 
 この地政学的な位置を、理論的に規定し導入することは、きわめて重要なことだと考えられる。それは一義的には日本の歴史と経験について理論的に接近するために、「帝国―植民地」という二項対立的な概念からは接近しにくい独特の歴史と経験とを記述するために必要であるし、またそれは「間接的な周辺」であった他の地域・国家の経験と接続させるためにも必要であるからである。
 
 たとえば、インドネシアの歴史や、オーストラリア・ニュージーランドの歴史、また遡れば古代ペルシャにとってのギリシャローマ帝国にとってのイングランドなどと言った地域と、その経験は接続しうるものだからである。地政学的な位置について、より理論的な考察が必要であるのである。