備忘のために

 
 日本に帰国したのはもう9年前のことになるが、その時のことは実はあまり思い出したくない記憶である。帰国してすぐに混乱状態に陥り、しばらく(というよりも数年単位で)その混乱状態が続いたからである。帰国とは元いた土地に戻ることであるために、すぐ再適応できるものと大多数の人は思っているようだが、そうではない。外国に適応するのと同様の長い再適応期間が必要となるのである。
 
 今考えると、韓国に暮らしたのが7年であったのだが、日本に再適応するのにだいたい同じくらいかかったように思える。その間は基本的に混乱状態にあったわけである。
 
 今は客観的に言えるけれど、その間の状態はとても苦しいものであった。おそらく雅子様適応障害と似たような症状だと思うが、日本の色々な風景や人間や街並みなどに強い違和感を感じながら暮らした。日本語にもとても強い違和感があった。日本語を聞きたくない時にはインターネットで韓国の放送を聞いたりしたものである。
 
 なぜこんなことを書き留めておくのかと言うと、このような混乱状態はほとんど収まったが、時折再帰することがある。最初の頃の混乱状態に近い状態に置かれると、その時の症状がふたたびぶり返すのである。最近、そのような体験があって、また混乱状態に近い状態に行きそうになった。
 
 まあだいぶ免疫ができてきたので、もう重い混乱状態にまで進むことはないけれど、時折そんな軽い症状は現れるのである。
 
             ☆
 
 このような体験で、一つ知見を得たことがある。それは帰国者の心理に想像力が及ぶようになったことである。戦後、数百万人単位の人が内地に帰国し、彼ら彼女らは「引揚者」と呼ばれた。引揚者たちは社会集団として大きく取り上げられることはないが、実は戦後の日本社会において大きな社会的比重を占めている集団である。
 
 彼ら彼女らは、都市の境界的な部分で、あるいは僻地の農村の開拓に携わって、戦後すぐには闇市のマーケットなどにも深く関わって暮らしてきた。彼ら彼女らの本国での再適応は、日本社会のもっとも境界的な部分から始められなければならなかったのである。彼ら彼女らの内面はあまり記録に残されていないが、強い違和感と不適応があっただろうことは想像に難くない。
 
 日野啓三の小説には、そのような引揚者の不適応と絶望感についての記述が散見する。彼は朝鮮から引き揚げた引揚者であった。投げやりな青春時代の思いや、戦後十数年ぶりで訪れたソウルの風物への思いなど、引揚者の心理はよく書きこまれている。
 
 彼は戦後十数年ぶりで訪れたソウル訪問をきっかけにして、自らの人生を変える。その地で出会った女性を呼び寄せるために、日本人の妻と別れ、面倒な書類手続きを経て、韓国人女性を呼び寄せるのである。そのことは失われた時間を取り戻す行為であったことは容易に想像できる。
 
 彼にとって引き揚げ以後の戦後の時間は、本来のあるべき土地と切り離され、あるべき人生を失った時間であったわけである。そのことを取り戻すために、彼は韓国人女性を呼び寄せ、別の人生を生きようとする。
 
 その心理はよく理解できる。あるべき土地や時間を置き忘れてきた感覚、どこか自分の土地や時間を生きていない感覚。そのような感覚の中で、引揚者の戦後は営まれてきたのである。戦後の日本や東アジアには、そのような自らの土地や時間を置き忘れてきた人々たちが大勢存在し、彼ら彼女らのそのような境界的な存在によって、戦後という時間は織りなされてきたのであった。各国、各地域の引揚者たちの存在は、戦後東アジア史の隠れた大きな領域を形成している。