『セデック・バレ』第1部

 
 ようやく念願かなって『セデック・バレ』の第1部を見てくる。言うまでもないが、台湾の霧社事件という原住民による日本人支配への反乱事件を題材としたものである。2011年に台湾で上映され大きな話題となったものだが、日本での上映がようやく今年になって行われるようになったのである。
 
 この『セデック・バレ』については語りたいことが多くあるが、映画的な部分は省くことにする。大がかりなセットを使って、大作映画を作った台湾映画の力量にとても感心した。また、興味深いことにこの映画のスタッフにはかなりの日本人と韓国人が入っている。つまり、この映画は台湾映画ではあるものの、台湾だけをターゲットとしたものではなくて、東アジアを意識して作られたものなのである。もちろん出て来る日本人たちは、みな本当の日本人が演じている。
 
 『セデック・バレ』で一番印象的だったのが、日本人と台湾人の間での様々な要素を全体的に描こうとしている点であった。例えば夫が台湾人で妻が日本人という家庭や、逆に日本人の夫と原住民の妻という家庭も描かれている。その間で葛藤する台湾人原住民の警官の姿も詳しく描かれている。
 
 また、日本人に蜂起する原住民たちも一枚岩というわけではなく、蜂起を主張する主戦派と、そんなことをしても部族が全滅してしまうだけという慎重派とがリアリティをもって描かれている。その間で葛藤する人物たちの様子も細かに描かれているのだった。
 
 このような様々な要素を全体的に描こうとしていることを見る時、納得することがあった。この映画は、植民地時期の台湾社会(原住民と漢族の関係も描かれている)を全体的な構想で描こうとしているのであり、その意味で「歴史認識」に関わる映画なのだということであった。そう、この映画は何よりも「歴史認識」に関わる映画なのである。
 
 同じウェイ・ダーション監督の前作『海角七号』も植民地期の台湾と現在の台湾とをオーバーラップさせて、ある意味で歴史的なテーマを扱ってはいたが、よりそれを全体化して、植民地期の台湾社会を詳細に、リアリティをもって描こうとしているのだということが納得されたのである。
 
 このことは実は東アジアでの「歴史認識」を扱った映画たちの流れの中にこの映画もあることを示している。中国では『南京!南京!』で同じような全体的な「歴史認識」を扱った映画を作っている。そこでも中国の民衆だけに偏らず、ラーベなどの外国人、そして日本人軍人の内面にも踏み込んだ全体的で総合的な「歴史認識」を行おうとしているたいへん意欲的な作品であった。
 
 振り返ればこのような「歴史認識」のテーマは、実は韓流映画から始まっているように思われる。『ブラザーフッド』は、北朝鮮南朝鮮との全体性として、韓国の現代史を捉えようとしたものであったし、そのような朝鮮半島を北と南の対立を乗り越えた全体性として表象しようという作品は『シュリ』や『共同警備区域JSA』以来枚挙にいとまがない。それらも現代史の「歴史認識」を問い返す映画たちであったわけである。 
 
 このような東アジアの「歴史認識」を問い返し、更新するような試みが意欲的に続けられている中で、さて日本の現状を見てみると寒々しいことこの上ない。タイミングよくというべきか、橋本徹氏などの極端な「歴史認識」が語られているタイミングであるからもっとそう感じられるが、日本には残念ながら戦前と戦後とを連続し、それを全体的な構想の下で語りなおそうというような「歴史認識」の映画はいまだに存在していない。
 
 東アジアでの意欲的な「歴史認識」映画の流行を見るにつけ、その寒々しい思いは増してこざるをえない。日本が敗戦国であり、「歴史認識」問題に特にアポリアがあるというのは言い訳にすぎない。韓国での北と南の対立は命の奪い合いをしたような熾烈なものであり、中国の「歴史認識」も愛国心を相対化し、外国人や日本人にさえも開かれた「歴史認識」を持とうとしている。
 
 日本の「歴史認識」が、加藤典洋の言うように(『敗戦後論』)、ジキル氏とハイド氏が同じ人格の中で分裂しているという指摘通り、その同じ人格の中での分裂を総合し、全体化するのはとても難しい。橋本徹氏という「ジキル氏」があけすけに「正論」を語ったために、同じ「ハイド氏」もまた正論を語らざるをえないような状況であり、その間の溝はいつまでも埋まることはない。しかし、東アジアの「歴史認識」映画を見れば、日本もまたそのような「ジキル氏」と「ハイド氏」の歴史認識は相互に統合され、全体化される道を模索するべきだという思いを強くした。
 
 戦前の植民地支配を美化するわけでもなく、また全面否定するわけでもなく、また第2次世界大戦を聖戦として考えるのでもなく、また不義の戦争として全面否定するわけでもないような、そのような「歴史認識」は不可能だろうか。戦後の歴史を全肯定するのでもなく、また全否定するのでもない、そのような「歴史認識」。左でも右でもない、それらを統合しうるような「歴史認識」はこの日本では不可能なのだろうか。不可能なわけはない。『セデック・バレ』を始めとした東アジアの映画たちはその作業を見事にやっているのだから。