NHKスペシャル 尼崎殺人死体遺棄事件

 
 NHKで未解決事件の連続特集番組を組んでいて、そのFile No.3として尼崎殺人死体遺棄事件をやっていて思わず見てしまう。例の角田美代子容疑者による複数の家族が崩壊に追い込まれ、暴力や虐待の末に7人が死亡、3人が行方不明となった事件である。
 
 この番組を思わず集中して見てしまったが、見てからの後味はきわめて悪い。最悪と言ってもいいくらいである。このような事件の発生する病理と、それを何もできない関係者たち――警察を含めての――の圧倒的な無力さのためである。
 
 この事件自体の後味もきわめて悪いものである。すぐに連想されるのは園子音監督の『冷たい熱帯魚』での連続殺人事件のことである。怪物的な犯罪者と、それに立ち向かうこともできず言いなりになり事件の加害者となり巻き込まれていく無力な男の物語である。尼崎事件の犯罪の構図は『冷たい熱帯魚』のそれととても似通っている。
 
 怪物的な主犯の人物(尼崎事件の場合は角田美代子という女性だが)とそれの言いなりになって巻き込まれ、家族どおしが虐待と分断支配を受け入れてしまう一般市民たち。そして彼ら╱彼女らは自らの家族を虐待する加害者となっていく。角田が直接に手を下すわけではない。その圧倒的な支配力とマインドコントロールによって、家族は分断され、相互に虐待をするよう仕向けられていくのである。
 
 子供たちは角田が自分のマンションに引き取って、好き放題をさせている。毎日ゲームやパチンコをしているように描かれていた。角田は親を軽蔑するように仕向け、親と子供をも分断してしまう。実に巧妙というか、人間の心を支配するマインドコントロールの天才と言うべきである。
 
 きわめて後味が悪いのは、その言うがままになる家族たちの無力さもさることながら、その過程を薄々気づいている近所の人々や、友人などが、何もできないでしまう無力さ、そして警察に何度も訴えに行っているにもかかわらず、警察も家族内のいざこざには介入できないという民事不介入の建前から何もできないという無力さの重畳している構図のためである。
 
 この暴力と監禁の過程で、家族および近隣の住民は30回以上警察に通報しているという。それを「家族内の事件への不介入」という建前によって、あるいは被害届が出されないと動けないという形式主義によって黙殺してしまう警察のあり方は、やはり無力さの変形といっていいものである。
 
 この一般市民から警察までを貫いている無力さの連鎖と重畳は、圧倒的である。どうしてこんなに日本の市民社会は無力さに支配されているのだろうか。角田容疑者がヤクザなどの暴力をちらつかせると、その前に何をすることもできない圧倒的な無力の連鎖がそこにはある。
 
 客観的に見れば角田容疑者の行使する暴力などはたかがしれたものだし、それを制御することは可能なはずである。しかし、関係者は誰もそんな発想は取らないし、面倒なことは関わらずに結局黙殺してしまうのである。
 
 例えば、韓国映画の『アジョシ』などのハードアクションものの構図も、この尼崎事件によく似ている。暴力組織に狙われ家族崩壊を迎える少女を、ただ近隣の知り合いというだけの男(ウォン・ビン)が命がけで救うというハードアクション映画である。
 
 この韓国映画では、その怪物的な悪に向かって立ち向かうウォン・ビンの超人的な活躍が描かれている。もちろんこの映画でも一般市民は組織の前に無力であり、臓器を取られたり、人身売買されたりと、好き放題な暴力支配のもとに少年少女たちが監禁されている。しかし、この映画のメッセージは明らかであり、その怪物的な暴力に、一般市民(この場合はウォン・ビン)は持てる能力をすべて発揮して立ち向かうべきだという強いメッセージである。
 
 ウォン・ビンは個人的な身体能力で立ち向かったのだが、立ち向かう手段は他にもあるはずである。政治的・社会的な資源を総動員して、われわれはこの怪物的な悪に立ち向かうべきだったのである。
 
 警察が無力で形式主義を盾に取るならば、実力と金と言論とネットなどの力で、立ち向かうべきだったし、あるいは個人でも命がけの勝負を挑むべきだったのである。(『冷たい熱帯魚』の場合には最後に命がけの反抗を企てている)。それができなかったのは、社会の敗北と捉えるべきだし、われわれの持つ社会的資源があまりに乏しいことを示しているのである。
 
 なぜわれわれ日本の市民はこんなにも無力で、政治的・社会的な資源にこんなにも乏しいのか、それをこの尼崎事件は問いかけていると考えられる。