座談会「日韓トランスナショナル」

 
 『文学』(岩波書店)の2010年3−4月号に載った座談会「日韓トランスナショナル」を熟読する。日本と韓国のいわゆる「国文学者」が同じ席に会して日韓の社会的な文脈とその中での文学研究のあり方、研究主体のあり方、などについて討論を行ったものだが、これほど面白く知的刺激に満ちた座談会を見たことがない。あまりに興味深くて、一気に熟読した。
 
 日本の「国文学」と韓国の「国文学」が対話を行い、深い次元での交流を行えたらどんなに知的に豊かな成果を生み出すだろうと常々考えてきたが、まさにその夢想を実現したとも言えるような知的刺激と興味に満ちた座談会であった。
 
 日本の「国文学」と韓国の「国文学」は大枠において知的枠組みを共有している。つまり扱う作家たちは違っても、対話は十分に成り立つ基盤と可能性とを持っている。しかし、両者で異なっている点もある。それは一言で言って「国文学」の置かれている社会的な文脈が両国で異なっている点である。
 
 そのことはこの座談会の前半で問題化されている。一つは1980年代の韓国での民主化運動の中で、「国文学」は中心的な位置を占めたこと、座談会ではそれを80年代が「革命の時代であるとともに文学の時代」であったと呼んでいる。韓国の「国文学」は1980年代の民主化運動の中で、先端的な位置を占めたと言っていいのである。このことは日本の「国文学」には想像しにくい文脈の違いである。
 
 日本でも学生運動華やかなりし頃は、文芸批評家(吉本隆明柄谷行人ら)が社会的な影響力を行使した時代はあったが、それをもう少し広範にした事態を想像すればよいだろうか。韓国が独特なのは「批評」と「研究」が日本ほど分離していずに、かなり実践的な場所で「国文学研究」が行われている所にある。座談会に参加した千政煥さんも権明娥さんもそうだが、かなり実践的な(社会的な)場所に隣接して研究を行っており、そのことは日本の文学アカデミズムの作家・作品中心主義とは一線を画したものであると感じられた。
 
 そのような社会的なコンテクストの違いによって、韓国の「国文学」研究は一方で先端的な時代的課題に直面する鋭敏な姿勢を持っている。これも日本ではどちらかと言うと「批評」の分野に担わされた課題で、「文学研究」には欠けていると思われる点である。フェミニズムラカンなどの精神分析ポストコロニアル批評、カルチュラル・スタディーズといった先端的な思想を鋭敏に貪欲に吸収する姿勢は見習いたいものである。
 
 特にその中でもこの座談会で大きな話題となっていたのは、小さな主体、複数の主体といった問題である。近代文学の制作と受容の両面において、つまり作家主体と読者主体において、それらを微細な多層的な主体として捉え返すという志向が韓国の二人の研究者には強く現れていてたいへん興味深かった。植民地時代の読者大衆を、高級な日本語を解する読者からハングルのみの読者、そしてハングルも介さない口承的な場を介しての読者までの多層的なスペクトラムとして再構成しようとするところには、韓国の植民地社会を亀裂と分裂を含んだ「全体性」として理解しようとする志向がうかがえて、それも彼らの実践的な姿勢と深く関係していることが感じられた。
 
 作家主体についてもそれはおそらくあてはまることだろう。高級な文学や日本語を解する知的エリートとしてのエリート男性(女性)と、韓国の植民地社会の基層的な部分、民衆的な部分に引き裂かれ分裂した主体として近代韓国文学の作家主体は存在している。その接合と分裂との中に、韓国の近代文学の作家主体は立っているのである。「植民地近代性」をめぐる議論は、そのような分裂した読者主体や作家主体の問題とリンクしている。
 
 この座談会での大きなテーマはそのような複数の分裂した主体についてだが、それを植民地期にのみ限定した問題としてではなく、現在のトランスナショナルな移動と交流の中にも読み込み、接合するのが後半での話題となる。
 
 トランスナショナルな主体とはどのような主体であるのか。特に唯物論的な次元でそのようなトランスナショナルな主体とはどのようなものであるのか。その問題について、強い示唆を与えてくれたのは最後に行われた高榮蘭氏の発言だった。トランスナショナルとは一方では二つの言語、二つの言語的、社会的な記憶をうまく(効率よく)接合することであるが、――現在の公的な場面でのトランスナショナルな政策はそのような効率性(早くよく適応すること、言語を習得すること)を前提としている――トランスナショナルとはそのような効率性に剰余としてあるいは違和として付随する記憶の剰余、記憶の亀裂のようなものであるはずである。あるいは接合と亀裂の両義的な関係にあるはずである。だからトランスナショナルな主体とはさまざまな分裂と亀裂とを含んだ主体である他ないのである。記憶の亀裂、言語の亀裂、そのような接合と亀裂の両義性を生きる主体としてのトランスナショナルな主体のあり方を高榮蘭氏は短い発言の中で主題化していて、とても刺激的なものだった。
 
 この座談会は実は、近代文学研究の核心的な部分を主題化していて、その意味でまさに刺激的な座談会だった。日本の「帝国」的な文学の時代に関して、韓国側から問われてもうまく日本側は返答できなかったが、この「帝国」性の中の小さな主体、分裂した主体のあり方は近代文学研究の中のもっとも核心的な部分であるはずである。そして戦後文学、現代文学の中でも亀裂と分裂は存在している。日本の「近代文学」研究もナショナルな領域を微分し、小さな主体(たち)の見えざるコンテクストを主題化すべきなのである。その意味で、きわめて実践的な方向付けを与えてくれる座談会であった。