ナ・ホンジン監督『チェイサー』(나홍진 감독 『추격자』)

 
 また正月から苦しい映画を見てしまう。とてもとても見ているのが苦しい映画であった。最近の韓国映画がその表現の強度をどんどんと上げて、まさに息をつかせないような人間の原初的な感情を刺激するものにまで「進化」していることをまざまざと示す映画である。
 
 しかしこれはどういう進化なのだろう。人間の原初的な悲哀や、人生の苦しさや生き難さ、はてしない暴力、等々ほとんど表現しうる極値までその表現を進めているのではないだろうか。ここに描かれるのはほとんど宗教的な罪や原罪や、悪魔的な悪、人間の生の持つ根底的な悲しみといったところにまで及んでいる。
 
 ミジン(ソ・ヨンヒ)は母と娘だけの母子家庭の母である。しかも彼女は売春を業としており、通りで待ち合わせた客に一軒家の家に連れて行かれ、のみとハンマーで頭を割られ殺されかけるが、すんでのところで来客があり一命を取りとめる。
 
 売春の元締めであるジュンホ(キム・ユンソク)が、彼女が売り飛ばされたものと思い、その手付金を回収できないということもあって、執拗にその犯人を追い始める。彼ジュンホが題名となっている「チェイサー(追跡者)」ということになる。彼もヒーローというよりも警察官をくびになり売春業の元締めを営む中年男であり、人生の苦さや悲しさを思わせる人物である。
 
 この猟奇的な売春婦連続殺人の犯人であるヨンミン(ハ・ジョンウ)は悪魔的な人物であって次々と連続殺人を行っていく人物なのだが、しかし彼も性的な不能という苦しみを抱えている人物として、教会の十字架上で苦しむキリストと最後のほうではだぶらされて、描かれていくことになる。
 
 追跡の過程でミジンの一人娘であるキム・ユジョンが追跡に加わることになるが、この7歳の娘がけなげで、母親を追っていくところ、母親の命に関わる事件があったことを知って車の中で泣くところは、胸が詰まる。
 
 このように書いてきただけでも、ほとんど設定だけで人間の生の苦しさ、やるせなさを喚起するものばかりが選ばれていて胸が苦しくなる思いをする。事件の進行も、それに劣らず悲劇的であり、いったん生命の危機を脱したミジンは、縄を解いて家から脱出するが、そこで飛び込んだスーパーに再び殺人者のヨンミンが現れ、そこで抵抗しようもなくハンマーで頭を割られ死んでしまうのである。
 
 このほとんど救いのない状況と人物とを見て、それでもそこにカタルシスを感じるのは、ジュンホが途中から必死になってミジンの生命を気遣い、できる限りの知恵や立ち回りを演じて犯人を追っていくところや、一人娘のキム・ユジョンのけなげさによっている。もちろんその母のミジンの生きようとする意志も含めてである。
 
 しかしそれよりもこの映画のカタルシスの根源は、そのような人生の救いのなくやるせない側面を凝縮して示したこと、そのこと自体にあるのかもしれない。「剥き出しの生」そのもの、社会や国家から何の保護をも受けえないそのような「剥き出しの生」、「裸の生」そのものの持つカタルシスというものが存在する。そのような「剥き出しの生」に触れて、われわれは涙を流しながらもカタルシスを感じるようになっているものらしい。
 
 そういう意味では、この映画は苦しみのカタルシス、人間の原罪的なあり方の持つカタルシスに触れているのかもしれない。
 
 最後に犯人のヨンミンが、十字架上で苦しむキリストに己を重ねているらしいことが描かれているが、それは売春をして生を営まねばならない女性たちへの解放として連続殺人をしていたことを暗示しているものかもしれない。悪魔的な殺人者が、どこかで十字架上で血を流して苦しむキリストの像と接続されているのである。この着想は戦慄的であり、恐ろしい。
 
 とにかくこのような「剥き出しの生」の極限にまで行きつこうとする監督や、そして韓国映画の衝迫に感嘆せざるをえない、そんな映画であった。