『ベンジャミン・バトン』

 
 テレビの正月映画(?)で『ベンジャミン・バトン』をやっていて、見てしまう。2回目となる。この映画の主題は時間であって、主人公が時間を逆にたどることによって、人生の中の時間の持つ意味がとても劇的にあぶりだされている。
 
 元々昔から時間を主題とした物語にはとても惹かれるものがあって、例えば漫画作品だが『ポーの一族』には深い感銘を受けた。主人公のヴァンパイアであるポーの一族が年をとらないで、何世紀も人の世の移り変わりを傍観していく物語である。この『ポーの一族』にも自分は年をとらないのに、関わった人々が年を取っていき移り変わっていくことへの悲しみが印象的だった。『ベンジャミン・バトン』でも物語の核心にあるのは、周囲の正常な時間の流れと、主人公バトンの持つ年を逆行する時間性との矛盾と齟齬であり、それが人生の持つ悲しみを劇的に表すものとなっている。
 
 この時間性の矛盾と齟齬ということは、実は途中から年を取ることのなくなった人、つまり早くに亡くなった人を哀悼することともつながっている。哀悼とはだから時間のとまった人と時間の流れの中にある人との相互の関係であり、その矛盾や齟齬という関係の持ち方でもあるわけである。
 
 『ベンジャミン・バトン』にはだから明らかに哀悼という主題が籠められている。主人公バトン(ブラッド・ピット)に関係する人々は、母親からはじまり、船長や父親や養ってくれた養母たち、というたくさんの死を経験する。それらの多くの死者を見送って、主人公バトンは時間を逆行していく。それは矛盾ではなく、むしろ人生のあり方をより劇的に濃縮して表したものと考えるほうが合っているだろう。
 
 時間を自分だけ逆行するということは、普通の人の時間の流れにくらべて、反対方向に時間がそれだけ進むわけだから、要するに2倍の速度で人生を送るということを象徴していることになる。そこで多くの別れと哀悼ということが必然的に現れて来ることになるのだろう。
 
 デイジーケイト・ブランシェット)との愛情はそのような別れと哀悼のバトンの人生の中で、奇跡的な瞬間だったと言っていいように思う。デイジーは時間を逆行するバトンの人生を、はじめから共有した女性であり、彼の逆行する時間と人生とをそのままに受け入れてくれる存在であった。
 
 だから彼女はバトンの逆行する時間をすべて受け入れて、彼の幼児となっていく姿までのその人生のすべてを受け止め、優しく追悼してくれるのである。バトンはその時間性の矛盾に苦しんで、途中でデイジーのもとを去ってしまうが、しかしデイジーは最後まで彼の人生を見守り哀悼してくれる。それはバトンの人生において奇跡的で、かけがえのないものだったと思える。
 
 デイジーは最後に痴呆症となって言葉も失っていくバトンに、寄り添って童話の本を読んであげる。それはバトンの人生にとって最高の哀悼であり、慰藉であったはずである。バトンの人生はだから悲劇的なものではあるが、最終的に祝福され慰藉に満ちたものであった。美しい愛情と追悼につつまれて彼はその人生を終えたのである。