震災日記33 恩師よりの手紙

 
 数日前に大学院時代の恩師であるK先生から震災以後の様々のお見舞いへのお礼状が届いた。K先生はワープロを使うのができなかったはずなのだが、今年になって勉強したものかワープロでA4用紙6枚にわたる長大な礼状であった。
 
 そこには震災以後の様々な方々からのお見舞いや心遣いへの丁重なお礼の言葉から始まり、震災以後に先生が感じたり、思索してきたことどもが縷々と、あるいは切々とA4用紙の数枚にわたって綴られていたのである。
 
 この礼状を受け取ってから、悲しみの波に襲われた。K先生の手紙には、震災後の喪失の感覚が事細かに語られていたからである。あるいは「過去の記憶」と「現在の記憶」とがうまく折り合いのつかない模様や、立ち上がれないでいるままの心情が綿々と綴られていたからでもある。
 
 一部分、引用してみる。
 
 「私は、自らの平穏な「過去の記憶」と大震災後の過酷な「現在の記憶」との折り合いをつけるための気力・体力・決断力・覚悟・信仰心などの心構えをいちじるしく欠落していることに気づいて愕然としているところです。あのときに凍結してしまった私の心は、茫然自失のまま氷の迷宮をさまようのみでした。身体障害をかかえている高齢者というのは、稚拙な自己弁護にしかすぎません。生来の「怠惰」な習性のゆえにちがいないと思うのです。非情な災禍によって命を失われた方々、過酷な再生の営みを担わされた人々、地の神々と、荒れ狂ったことを恥じてでもいるかのように静かな波に変容した海の神々に鎮魂と再生を祈り続けることが、二つの「記憶」の折り合いにつながるのではないかと、考えるようになりました。――(後略)」
 
 このような具合に震災後の思索と心情とが事細かに書かれていたのであった。K先生のお住まいの所は仙台北部の住宅地なのだが、思ったよりも被害が大きかったことも書かれていた。団地内の書店・文房具店・食堂などはついに再開を断念して廃業してしまい、小学校は内部被害がひどくて児童たちは別の小学校に分散しているとのことであった。造成地は地震に弱いのである。
 
 また、3月15日に入稿予定だった奥様の原稿や、先生ご自身の本の構想原稿、別刷りなども失われてしまったことも書かれていた。
 
 最後には被災者の現状を三つに分けて、A、何とか立ち直りつつある人、B、何も変わっていない人、C、もっと落ち込んでいる人、の三類に分けていて、そのなかで自分は「Bにとどまっているか、もしかしたらCに近い、愚かな人間なのかもしれません」と述べられ、そして先生が心を打たれた被災者の投稿文(河北新報の読者投稿など)が添えられて、「こんな辛く悲しい文章に出会うと、涙があふれてどうにもなりません」という言葉とともに結ばれているのであった。
 
 このような深い喪失感の中にK先生がいることは想像できなかったので、大きな衝撃を受けて私も悲しみの波に捉えられた。
 
 震災後、生き残った被災者の方々の中に、復興に向かって何とか頑張り立ち上がりつつあるように見える時期に命を絶つケースがあるということを聞いた。それも、家族が被災したとか家が津波に流されたとかいうことでも必ずしもないという。人によっては大事にしていた家具が震災で流されてしまったとか、家の周りの風景が一変してしまい見慣れた町がなくなってしまった、ということだけで生きていくことが出来ないほどの衝撃を受けるものらしい。
 
 仙台の街は12月に入ってイルミネーションが輝き、多くの人出が街にあふれて、一種の活気を取り戻している。しかし、立ち直ろうとしている表面の下にはまだまだ失われたものの大きさが潜んでいるのだと思えてきた。いつそのバランスは崩れて、喪失感のなかに人は陥るかもしれないのである。K先生の悲しみと喪失感の大きさに対して、いったいどのような返答ができるものなのか、とても大きな難題である。悲しみと、この深い喪失感はいつ癒えるのだろうか。癒される道はあるのだろうか。他者はそれに対して何が可能であるのだろうか。どのように悲しみに連帯することは可能なのだろうか。そんなことを考えさせられるK先生の手紙だった。
  
 ちなみに先の立ち上がりかけたところで命を絶つケースについてだが、とてもよく理解できる。強迫的に何かしなければ、立ち上がらなければという思いに駆られて必死に前を向いて目の前の仕事を一生懸命にこなしていても、ふと何かのきっかけで悲しみと喪失に襲われたときにその努力が果てしなく空しいものに思えてくる気持ちはとてもよく理解できる。失われたものを取り戻すことは、絶対にできないという知覚が来るのである。悲しみの波に襲われると、そのような空しさのすぐ近くに自分もいることに気づくのである。