ヤン・イクチュン監督『息もできない』

 久しぶりに圧倒的な映画を観た。この圧倒的な映画的パワーをどう表現したらいいものだろう。何か原初的な表現したい欲望が、洗練された映画的なコードを通すことなしに、そのままの原初的な熱と質感をもって奇跡的に映像となったような映画、とでも言おうか。
  
 この映画は暴力と悪態とに満ちている。むしろそれだけからできていると言っても過言ではない。「暴力映画」「悪態映画」の代表と言ってもいいだろう。しかし、たとえば北野武の暴力映画を横において見れば、この「暴力映画」はクールではない。つまり「暴力」を距離を置いて観ているようなクールさはそこには存在していない。クローズアップを多用して、常に至近距離から暴力を描写するカメラの揺れる視線は、むしろ原初的な暴力の感覚を思い出させる。しばしば暴力場面にはそれを傍観している子どもが配置されているが、この視線は幼い子どもが人生の最初期に出会う暴力の印象を再現している。
 
 この人生の最初期における原初的な暴力の記憶というイメージ、あるいはモチーフはこの映画に一貫している。主人公であるサンフンは原初の記憶として父親の暴力とそれによって妹が誤って死んでしまう(母親も病院に向かう道で交通事故にあい死んでしまう)という記憶を抱いているが、その記憶を抱くサンフンは借金の取立て屋として、あるいは雇われて屋台の撤去などを行うヤクザとしてそれにも増した強度の暴力を毎日のように行っている。その暴力を振るう傍らには先に述べたように子どもの視線があり、原初的な暴力の記憶を再び再生産しているのである。まさに暴力の世代間連鎖がそこで生み出されている。
 
 サンフンの周囲にはなぜこうも暴力の記憶が連鎖しているのだろうかと思うほど、彼の姉夫婦、彼の女友達となる高校生のヨニの家族などにも、暴力の深い傷跡があり、記憶が存在している。暴力の起源は父親の家族に振るう暴力ばかりではなく、ベトナム戦争に参戦した国家の暴力も存在している(ヨニの家族のケース)。そして主人公の甥であるヒョンインや、ヨニたちが、その原初的な暴力の記憶を受け継いで今この場に立っているのである。
 
 ただ、この子どもたちの世代――ヒョンインやヨニ――が暴力の連鎖にすっかり巻き込まれていずに、イノセントさを多分に保持していることがこの映画の大きな救いとなっている。主人公のサンフンとヨニとはふとしたことから友達となり、お互いに暴力の記憶を共有する者どおしとしての連帯(恋愛というより連帯や友愛と言ったほうがぴったり来るだろう)を持つに至る。二人は互いに悪態を付きまくるが、その悪態にはそれしか表現の方法を知らない暴力の子どもたちの愛情表現・友愛表現なのだと見えてくる。
 
 ヨニは、父親がベトナム戦争によって負傷し障害者となり、母親は屋台撤去に抗議する中で死亡し、弟は不良仲間と遊び歩いているという、かなり救いのない状況にある高校生だが、しかし暴力に汚染されていない無垢さを多分に持っている少女である。その無垢さによって、主人公サンフンもいつか暴力の記憶の彼岸に存在していた「家族」への夢を呼び戻されていくことになる。
 
 サンフンの家族とは、殺人により15年の刑を終えて出所した父と、夫の暴力によって離婚した腹違いの姉、そしてその息子のヒョンインである。彼はその「家族」をいつか受け入れ始める。父親が自殺未遂をして、手首を切ったときに、彼は自分が父親の存在を必要としていることに気づくのである。「オレの血を全部抜いて父にやってくれ」と泣き喚くサンフンの姿は暴力にまみれた彼の中にも無垢な子どもとしての魂が存在していたことを明かしてくれる。
 
 しかし彼が「家族」の夢を呼び戻し、もう一度ヤクザから足を洗ってやり直そうとしたまさにその日に、彼はヨンジェによって殴り殺される。ちょうどその日は甥のヒョンインの学芸会があって、そこにヨニや姉、社長のマンシクを呼ぼうとしている日でもあった。
 
 その学芸会はサンフンにとって「家族」の再生の日であるはずだった。彼はヨニを社長に会わせたいと言っていたが、それは「家族」として長年の親友である社長に引き合わせたいということだったろう。あるいは深読みすれば再生の洗礼を受けるための神父として、社長を呼んだのだっただろうか。
 
 その「家族」の再生の夢はサンフンの死によって水の泡となる。しかし水の泡となるはずだった「家族」の夢はサンフンの死によって別の形で実現されている。父親、姉、甥、そこにヨニを入れた「家族」はサンフンはそこにいなくても実現していることが示される。暴力の記憶が連鎖するこの社会から、無垢な「家族」が生まれうることをこのラストシーンは示している。あるいは無垢な「家族」がこの暴力的な世界の中でも存在しうることを信じたいという、監督の願いのようなものだっただろう。しかしハッピーエンドとはならず、最後にヨンジェによって暴力の連鎖は今なお続いていくことが示されて、映画は終わっている。暴力の記憶と「家族」の再生の物語とは今なおこの世界の中で拮抗し対峙しているのである。