震災日記19

 今回の震災後、多くの人が戦中や戦後直後との類似を述べている。焦土と化した戦中の都市と今回の津波被害の被災地とのヴィジュアル的な類似からだろうか。あるいは総力戦で戦ってきた戦争(経済戦)が敗北に帰したという意味合いもあるだろう。しかし、敗戦というアナロジーはそれなりの響きを持っているが、実態はそうではない。それはあまりにも抽象化された細部を見ない物言いである。
 
 今回敗北したのはまたしても「物言わぬ民」としての東北地方の人々である。その点を日本全体の敗戦とすりかえるのは抽象化も甚だしいのである。今回の震災後、マスコミに常に何かしらの違和感を感じてきたのは、原発報道にしても、計画停電にしても、中央からの報道としか感じられず、それに対して「物言わぬ民」としての東北の被災者の声は小さいと感じられたためである。
 
 第一義的に今回の震災は江戸時代以来、飢饉と冷害と不作と、近代の産業構造・政治構造によって周辺化されて出稼ぎや集団就職を余儀なくされた東北地方の悲劇が繰り返されたものであり、またしても東北地方は敗北を呑まされたのである。
 
 その近代史の構造を見ないで、今回の震災を正しく見通すことはできない。「物言わぬ民」が「物言わぬ死者」となっただけで、その声は常に中央に収奪されてきた。今回もまたその構造は変わらないのでは、あまりにも空しいではないか。
 
 もちろん震災後しばらく被災者の声や避難所からの声をテレビで流していて、それは大きな慰みとなった。また、原発被災地での避難地指定をめぐって福島の人々は直接声を出して抗議をし、政府や東京電力に対して抗う姿勢を見せている。これも大きな慰めである。
 
 東北地方は負け続けた地方と言われる。自然条件、産業条件、経済条件、すべてにおいて不利な状況下で、多くの災害と経済的な従属状態、周辺化状況を呑まされてきた。「国策」とあれば減反も呑まされ、原発も、放射能廃棄物処理場もすべて呑まされて来た。それらの負の遺産を受け継いだ上で、しかもこれ以上負け続けるわけには行かないのである。「物言わぬ民」は声を上げなければならない。福島の人々のように中央へ言い返し、書き返さなければならない。Tohoku natives should talk back, and write back.