映画『アンナ・カレーニナ』を見てブロックバスター映画について考えた

 
 久しぶりの更新。
 
 なかなか新学期が始まって更新がままならない。雑用が多いこともあるし、今学期は授業をパワーポイントですることに決意したので、以前よりも授業準備に手間がかかるのである。パワーポイントを作ると、一応授業のストーリーを考えたり、映像資料などを探したりするので単純に時間がかかるのと、それだけでなくやはり印刷したレジュメが必要な気がしてレジュメも作るという二度手間をしているためである。それで、例年の1.5倍くらい授業準備に手間がかかる。ただ、今学期苦労すれば後は画期的に楽になるという見込みの下で何とか頑張っている。
 
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 さて、ようやく雑用が一区切りついたので、今日は映画『アンナ・カレーニナ』を見てくる。映画自体はまあまあ面白く見たが、それよりも一つ納得したこと(発見したこと?)があったので、それについて書きたい。
 
 少し前に話題となった『レ・ミゼラブル』を見たときに何となく気になることがあるのに言語化できないようなそんな思いを抱いた。今日、『アンナ・カレーニナ』を見たことで、その『レ・ミゼラブル』について抱いていた感想がようやく言語化できたような気になったのである。それは個人的には発見と言ってもいい性格のものである。
 
 それはこの有名な原作を基にした二つの映画が、実は「文芸もの」の映画ではないということである。原作のメッセージやら背景やら思想やらを伝えるということはこれらの映画の第一の課題ではなく、別の動機によって作られている。
 
 この二つの映画は多くの共通点を持っている。二作とも演劇的な(『レ・ミゼラブル』はミュージカル、『アンナ・カレーニナ』は演劇)趣向を前面に出していて、その演出は見る目を引き付ける。そしてそのミュージカルあるいは演劇の舞台がひどく大がかりで、莫大な資金をかけた凝ったもので、その大がかりな背景が売りとなっていること。二作とも原作のストーリーよりも、それらの演出(背景、舞台、衣裳など)が突出していること、それがメディアを巻き込んだ話題性となっていること、などである。
 
 こういった二つの映画の特徴を考えて行くと、このタイプの映画が「文芸もの」――原作を現代的に解釈して、リメークしたもの――ではなくて、まったく別の動機から作られた大作映画であることが見えてくる。つまり、これらの映画はブロックバスター映画の変種、あるいは現代的な方向性を示した映画のタイプであるということである。
 
 ブロックバスター映画はSFやファンタジー、戦争アクションなどのものという思い込みがあったが、それが拡大して(あるいは現代的な変種を生み出して)文芸ものを仮装した大作映画として再生産されていること、が今日納得できたのである。言ってみれば女性層をターゲットとした現代的ブロックバスター映画とも言おうか。
 
 このような大作映画が成功する条件を持っているのは、原作があることでストーリーは保証されていること、背景や舞台や衣裳などに徹底して現代的な演出を施せば、マスメディア的な目を引くことが容易であること、などによっているだろう。そこに少し原作の持っている思想的なメッセージ(『レ・ミゼラブル』は特にそうだった)を加味すれば、目の肥えた観客や批評界の好評も受けることができる。そういった意味で、文芸ものを原作とした大作ブロックバスター映画は、成功が比較的保証されたジャンルだと言うことができるだろう。
 
 私が『レ・ミゼラブル』を見たときに感じたどこか気になる感じは、したがってこの映画が原作をパラフレーズしリメークすることに重点があるのではなく、原作はその映画的な演出を加えられるべき基本的なストーリーラインに押さえられていることへの違和感だったのだと思える。
 
 ブロックバスター映画についてはこれまでアメリカや韓国で批評が重ねられているのだが、それについてもう一度本格的に考え直したくなった。吉本光宏の『イメージの帝国/映画の終わり』にはブロックバスター映画についての章があった。きちんともう一度読み直してみなくては。