やり残した課題

 
 先週の週末が岡山での学会だったので、帰るや否や平日の授業が始まり、やっとのことで一週間を乗り切った。疲れを取る暇がなかったのできつい一週間だったが、何とか週末にたどり着き、今日は夜に温泉に行ってきた。少しリフレッシュしないと。
 
 ところで、この前の書き込みではとりあえずパネル発表の反省をしておいたが、もう一つパネル発表に関してはやり残した課題があって、それも書いておきたいと思う。
  
 震災を一つの巨大なテクストと考えた場合、そこにどのように接近しどんな読解を試みるのかはかなりの幅があるわけだが、発表の準備をしながらこの震災という現象はポストコロニアルな読解に適したテクストだと考えるようになった。
 
 特に申知瑛さんの発表がマイノリティのコミュニティからのアプローチということで、ポストコロニアルな文脈という側面は強調されていたわけだが、自分の発表でもそのことは予感されてはいたのだが、まだ全面的に展開するには至っておらず、そのことは積み残しの課題として残った。
 
 東京と東北地方の言説的な不均衡や二重三重の近代の力学という形で、示唆はしておいたのだが、それをポストコロニアルな問題として前面化して展開する作業が必要ではないかと思っている。
 
 ポストコロニアル批評は、少なくても日本では外地・植民地の問題という枠組みの中で認識されていて、国内での問題においてそれを展開することは沖縄・北海道を除いてはあまりなかったわけだが、それを社会的なコンテクストの不均衡や言説的な不均衡という面に拡張すれば、日本国内の問題をポストコロニアルな文脈から論ずることは無理ではない。
 
 むしろ、ジェンダーや階級、地方対東京、エリート対非エリート、メディア的な環境、などのさまざまな不均衡を扱うことができる理論としてポストコロニアル批評を拡張して洗練することが必要だし、震災はまさにそのような問題意識に当てはまる事件だったと思える。
 
 だから必ずしも植民地やマイノリティという実体を想定しないでも、ポストコロニアルなアプローチは可能だし、むしろそのように普遍化されたアプローチとして捉え返されなければならないのだと考えられるのである。
 
 特に言語に書き込まれた亀裂や不均衡、言説に書き込まれた亀裂として、そのようなポストコロニアルなコンテクストは焦点化されうるし、また表象(東北表象、震災表象、日本人表象、等)に書き込まれた亀裂として読解されなければならない。
 
 震災はそのようなテクストに豊富に満ちているし、そこに現れた亀裂や不均衡をポストコロニアルな文脈から読解していかなければならないと思われるのである。
 
 ポストコロニアル理論の再定義も必要となってくる膨大な作業だが、そのうちぜひ取り組みたいものである。いつか機会があればいいのだけれど――。