日韓の感情的対立

 
 日を追うに従って、日韓の感情的な対立が激しくなって、とても複雑な思いに駆られるようになった。互いのメッセージが正確に伝わらず、その微細な表現や行為が、ますます相手の感情を逆なでして、相手の「無礼さ」に対する印象のみが強調される。この回路は日本だけでなく、韓国にも働いており、双方において相手側の対応の「無礼さ」を強調して報道し、それが止まらなくなっている。この回路は危険である。
 
 以前、中国との対立(日中戦争が起こる頃)にもこのような相手側の「無礼さ」を強調する報道は大々的に行われ、ついに「暴支膺懲」(無礼な支那をこらしめる)という開戦目的のキャンペーンに使われたりした。相手側のそのような「無礼」なメッセージがどのような文脈で出てくるのかは問題とされず、ただそのメッセージなり行為の表面的な「無礼さ」のみが焦点化される。
 
 だから、いま必要なのはこのような感情的な対立に巻き込まれず、そのメッセージ自体をより普遍性のある仕方で伝達し、説得することであるはずなのだが、そのような双方のメッセージの齟齬をうまく普遍化する努力は残念ながらあまり行われていない。だいたい、普遍化どころか「歴史認識」という言葉に面するたびに、ああまたか、という日本側の対応と、韓国側の失望が繰り返されている風景がいつものように広げられるだけなのだから。
 
 しかし、このメッセージ自体を受け止め普遍化する作業は、行われなければならないし、それのみによって相互のコミュニケーションの齟齬は解きうるのである。ことに、ここ10数年以来の、例えばドイツ、イタリアなどの植民地支配に関する公式の謝罪声明を見れば、この趨勢は避けようがない問題であることは明らかである。つまり、日本も植民地支配についての国家的な責任はいずれ認めざるをえない情勢であることは明らかである。それを引き伸ばしにするだけでは根本的な解決が図られないだけでなく、相互の不信とコミュニケーションの齟齬が永続するばかりである。
 
 日本がこの植民地支配の責任について直視してこなかったのは、一つには日本という国家のアイデンティティに関わると理解(誤解)する官僚的な硬直性と、もう一つにはアメリカとの関係において植民地支配は大きな焦点とならなかったこと、があると思われる。つまり、冷戦期においてこの植民地支配問題(歴史認識問題)は大きな問題として浮上しなかったのだが、冷戦期が終わるとともにこの問題が浮上してきたという事情がある。そしてその文脈に関して、多くの日本人は理解していないし、なぜ今頃になって蒸し返すのか、という反応をするばかりなのである。
 
 しかしこの冷戦期が終わって、相互に単独的な他者として植民地支配を受けた国とした国とが向き合って、互いの行為について直視するのは必然的な推移である。日韓の関係もこの文脈の中にある。この脱冷戦的な状況において、単独的な関係を相互に結びなおす作業において、日本が怠慢であったことは認めなければならない。冷戦的な構造、アメリカ依存的な思考の枠組みの中で、単独的な他者として韓国や北朝鮮と向き合うという努力はなおざりにされてきたのである。東アジアの特殊な状況、いまだに冷戦的な枠組みが残存しているという状況がそれに拍車をかけた。
 
 だが、21世紀の10年がすぎた今となって、その作業は遅ればせながら始められなければならない。日本が国家として何をして、その非人道的な部分については明らかな形で謝罪をし、その意を相手方の国民に知らせるという作業はしなければならないのである。そのことをまた今回もなおざりにしておくだけでは、単独的な他者の集合体としての東アジア共同体においてはもちろん、世界の中での日本の位置づけもどんどん劣化するだけなのである。