園子温『愛のむきだし』

 
 あまり感心はしなかったものの、現代性というものを強く感じた。ばらばらな素材やディテールを強引につなぎ合せパッチワークして、そこにともかくも「現代性」を描き得ている。そこには監督/脚本家である園子温の強い意志のようなものは感じられる。
 
 この映画で取り扱われている素材は、盗撮、幼児虐待、レズビアン、女装、新興宗教、精神崩壊などなどといったかなり刺激的で、ある意味で映画的と言えるものたちだが、それらの素材を統括する映画的な枠組みが宗教であり、家族であるのは興味深い。
 
 特にこの映画でかなり正面から現代日本における「宗教」の問題が映画的枠組みとして使われているのは、特筆すべき点だろう。少なくてもこれまでこのように宗教の問題を映画的に正面切って取り上げている商業映画を見たことはない。
 
 それゆえこの映画は見かけよりも切実に、オウム真理教事件以後の日本の状況を扱っていると考えることができる。オウム事件以後の日本における宗教は成立しうるのか?、その可能性はありうるのか?といったことを実は描いていると見ることもできる。
 
 罪としての盗撮や、救いとしてのマリア=洋子への愛、そしてそれを横から盗聴し、ストーカーし、横領しようとするコイケ=ゼロ教会=新興宗教、物語の大枠は宗教の可能性を愚直に信じる主人公ユウと、それに対する「不信」を象徴するとも言えるコイケとの対決であり、ゼロ教会からマリア=洋子を奪還する物語である。
 
 現代における愛/宗教が、大衆消費社会の中で成立しがたいものとなっているのに抗して、主人公はあくまで愚直に愛/宗教を信じ、マリア=洋子を奪還しようとする。マリアである洋子は幼児期に父親から虐待を受け、男に対する徹底的な不信感を抱いており、そこには二重三重の困難が立ちはだかっている。さらにそこに新興宗教ゼロ教会による洗脳によって、さらにその陰謀によって盗撮男、変態男として烙印を押されたことによって洋子と主人公ユウとの間には絶望的な壁が立ちはだかってしまう。
 
 その壁は女装した主人公の姿であるサソリによって一瞬乗り越えられ、そこに倒錯した同性愛的な関係が築かれかけるのだが、それもコイケらの陰謀によって横領され、サソリへの恋心はコイケへの同性愛的な感情へと横領されてしまう。
 
 しかし、その絶望的な二人の距離を埋めるのが、宗教であり、愛である。それは聖書的な愛、イエス的な愛と言ってもいい。それは成立しがたい二重三重の困難な状況を打ち破り、困難のゆえにいっそう試練を受けた愛であり、困難ゆえにいっそう輝く愛の姿である。そのような愛は現代社会において成立しがたいのは自明だが、それゆえいっそうの困難にまみれ、まみれきった底にあるようなものとしての愛の姿である。
 
 この困難にまみれた愛の姿が「愛のむきだし」というタイトルの意味なのだろうが、ある意味でこの現代社会にむきだしの愛の姿をぶつけて、その成立の可能性を問うてみたところに、この映画の可能性はあっただろう。
 
 主人公のユウは稀にみる愚直で純粋な信仰心と愛とを所有しているために、罪にも純粋にまみれ、いわば裸で現代社会の罪の部分に接している。罪と愛の問題に、むきだしの状態で対峙するのである。この部分は盗撮などの場面が誇張してアクション風に撮られているためにそれほど感心はできなかったが、実は罪に裸でむき出されている「痛い」感覚を与えられるべき部分である。
 
 このような「痛さ」の痛覚がそれほど切実ではなかったため、痛さとそれの克服としての愛というテーマは、少し弱くなってしまったが、しかし映画の最後の部分でゼロ教会に拉致された洋子を奪還するシークエンスでは、そのような「痛み」の感覚がよく描かれている。
 
 特にゼロ教会に洗脳された洋子が、コリント書の聖書の一節を主人公に向かって絶叫する部分は、痛い愛、痛みの中の最後の希望としての愛、それこそむきだしの愛の感覚を感じさせる秀逸な場面である。
 
 「たとえ、人間の不思議な言葉、
 天使の不思議な言葉を話しても愛が無ければ、
 私は鳴る銅鑼、響くシンバル

 たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
 たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、
 私は何ものでもない

 たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
 たとえ、賞賛を受けるために、自分の身を引き渡しても愛がなければ、
 私には何の益にもならない

 愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛
 愛はねたまず、誇らず、高ぶらない
 見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
 人の悪事を教え立てない

 愛はけっして滅び去ることは無い

 予言の賜物ならば廃れもしよう
 不思議な言葉ならばやみもしよう
 知識ならば、無用となりもしよう

 われわれが知るのは一部分
 また予言するのも一部分であるゆえに、
 完全なものが到来するときには、部分的なものは廃れ去る

 私は幼い子どもであったとき、
 幼い子どものように語り、
 幼い子どものように考え、
 幼い子どものように思いをめぐらせた

 だが、一人前の者になったとき、
 幼い子どものことはやめにした

 われわれが今、見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの
 「その時」に見るのは、顔と顔をあわせてのもの

 私が今知っているのは一部分
 「その時」には自分がすでに完全に知られているように、私は完全に知るようになる

 だから引き続き残るのは信仰・希望・愛、この三つ
 このうちもっとも優れているのは、愛」
 
 このコリント書の長い句を洋子(満島ひかり)が絶叫する場面は、この映画の中での愛/宗教のテーマ、痛みの中での愛というテーマが露出する瞬間であり、二人の間で絶望的な壁を乗り越えて愛/宗教が共有される瞬間でもあったのである。もっともこの映画の中で痛みを感じる場面でもある。
 
 このような痛みのリアリティを含んだ場面を撮りえたことで、この映画は成功していると言えるだろう。痛みと絶望にまみれた中で、それでも愛は成立しうるのである。その可能性をこの場面は象徴している。
 
 なお、この映画については多くのことが語られなければならない。特に「家族」、むきだしの家族については多くの考えられるべきことがあるし、純愛としての同性愛、純粋な罪として/聖なるものとしての盗撮、勃起としての純愛、などが語られなければならないが、それはまたの機会にしよう。