仙台文学館での対談・川村湊×佐伯一麦「文学は社会をどう描いてきたか」

 
 仙台文学館で企画展「文学と格差社会」関係のイベントとして川村湊佐伯一麦の対談「文学は社会をどう描いてきたか」が今日あって、出かけてきた。
  http://www.sendai-lit.jp/event/exhibit-special/218-2011-12-07-00-52-18.html 
  
 企画展は「樋口一葉から中上健次まで」という副題が付けられていて、近代から現代に至る文学史を「格差」という観点から振り返ったものなので、二人の対談も樋口一葉から始まって、中上健次に至る近代文学史をあれこれの個人的な交友関係を絡めて、文壇の裏話も豊富に交えたリラックスしたものだった。二人の息もよく合っていた。
 
 どちらかと言うと中上健次との交友関係(ソウルの中上のマンションに訪ねていって昼から酒を飲んだ話や、『地の果て 至上の時』を批判したことで殴られそうになった話など)が印象に残ったが、それなりに近代文学史への二人の見方がさりげなく語られて、示唆的な部分も多かった。
 
 プロレタリア文学者たちが、革命的なイメージとは違って仕送りをたくさんもらっていたり、ハンサムで女性にもてたりしたという部分を川村湊が強調していたのは、それなりのリアリスティックな文学史川村湊的リアリズム?戦後的リアリズム?)の提示なのだと感じられた。
 
 そのようなリアリスティックな文学史から見るとき、貧しさをリアルに把握でき描きえたのは真山青果「南小泉村」や島木健作満州紀行」などの農民の生活を描いた作品たちであり、また詩人として石川善助の名前を挙げていたのが印象に残った。石川善助の貧しさはそのままで輝いているのだそうである。
 
 本の上だけのものではなく生活に根ざした文学史ということ、あるいは生活者にも届きうる文学史ということが考えられるとしたら、そのような川村湊文学史がありうるのだろうと考えさせられた。
 
 対談後、私も呼び出されて二人と閑談をした。実は二人とも旧知の間柄である。佐伯一麦は高校での1年後輩、川村湊は韓国でシンポジウムに招いて講演してもらった。ということもあって、コーヒーをご馳走になりながらしばらくの間色々なお話を二人から聞かせてもらった。
 
 そこで話していて思い出したが、実は学生時代に一時期身を避けていた頃に東京の江古田にあった佐伯宅にお世話になったことがあった。何日か佐伯宅ですごして、その後その近くにアパートを借りて何ヶ月か避難生活をしたことがあったのだった。あまりいい記憶ではないので意識の底に沈めていたが、今日話していて急に思い出した。若気の至りの時期なのだが、色々なことをしたものである。
 
 人生何十年も生きていると、あれこれの土地や人々との関わりが増えていき、記憶の底に沈殿していく。それらの土地との記憶や人々との関わりをこの頃、改めて確認したり味わいなおす機会が増えている。人生の後半に至るというのはそのようなことなのだろう。そうして懐かしい人々や懐かしい場所が増えていき、時折再会できるということは、しみじみと味わい深いことだと思う。生きていること、人生とは悪くないものである。仙台文学館学芸員赤間さんとも大学院時代の同窓で、久しぶりにお話をして感慨深かった。味わい深い一日だった。