ポン・ジュノ『ほえる犬は噛まない』(봉준호; 『플란다스의 개』)

 ポン・ジュノの長編第1作『ほえる犬は噛まない』。ポン・ジュノについて少し考えをまとめておくために、見直してみる。改めて見ても、やっぱりポン・ジュノは才能の溢れる監督だと強く思う。
 
 スタイルが第1作から確立していること。軽いタッチ。韓国人の自己批評。エピソードの秀逸さ。俳優の生かし方。などなど色々感じたことは多いが、なかなか分析は難しいタイプの作品である。分析をするならば、この作品のスタイルに合うような軽くて、決して大きなストーリーには結びつかないけれど、でも批評性を十分持ったような、そんな分析をしなければならない。
 
 スタイルということで言えば、この映画は後を引くような大きなエピソードがあるわけでなく、むしろエピソードそれぞれが自立して自足している印象を持つ。スリリングな場面、犬殺しのサスペンス的場面、犬殺しの犯人(主人公・ユンジェ)の後を追うヒョンナムの追跡劇、地下室での警備員とホームレスの調理場面、それぞれ秀逸でサスペンスからコメディまで色々な味わいを味わわせてくれるが、それらが奥行きのある大きなストーリー構造を持っていくわけではない。
 
 フリーターに近い大学院生(非常勤講師?)の犬殺しというテーマは、それなりに重さを持っていて、社会風刺や心理描写に重きをおけばそれなりの奥行きをもったドラマになりそうだが、しかしそんな種類の映画とは決してならない。犬殺しをした主人公・ユンジェはその後妻が退職金で買ってきたプードルの犬を散歩させて面倒を見なければならない羽目に陥る。ヒョンナムに追跡された犯人であることを最後にユンジェは告白するが、それでストーリーが大きく動くわけでもない。決してシリアスな展開には行かないのである。
 
 だからこの映画は、エピソードの揺れ動きと振幅をジェットコースターに乗ったようにして味わって楽しんでいけば、それでいいのかもしれない。エピソードとエピソードの間は予測不能ではあるものの、決してとっぴ過ぎるわけでもなく、映画的想像力と快楽の幅の中を適度にあちこち連れて行ってくれるのである。
 
 突出したエピソードがある。地下室で警備員が犬を料理しながら、それを管理人に見つけられそうになりその注意を逸らすために話し始めた「ボイラー・金氏」のエピソード。木浦から来たというボイラーの金氏は、すぐにボイラーの故障原因を突き止め、すぐにボイラーは元通り動き出すようになる。ボイラーが動いたよイーン、という口癖をもったボイラー・金氏は全羅道方言丸出しのコメディ的人物であるが、彼が現場監督や施工業者たちの前でにやっと笑って「お前たちいくらポケットに入れたんだ」というマンション業界の裏側を暴く人物でもあるし、その後喧嘩の中で倒れて頭を釘に挿されて、マンションの壁に埋められたという怪談の中の伝説的人物でもある。このボイラー・金氏のエピソードはそれが語られているのが地下室であることもあって、現代の都市伝説(都市怪談)という色合いを持つが、それが深くその後の映画的な構造に関わっていくわけではない。だから突出したエピソードであって、この映画の特徴をよく表しているものであるのである。
 
 このボイラー・金氏のエピソードはポン・ジュノ映画の本質をよく表しているように思える。一度聞いたら、決して忘れられないような人物と語りの存在感。コメディとサスペンス、怪談と批評性が混ぜ合わされた異種交配性。そしてその強烈な印象に比して、その後の展開に何も関わらないという物語構造の軽さ。現代の都市伝説的な雰囲気。などなど。
 
 またこの映画が、軽さの中に決して漫画的な表層性に終わらない手触りを持つのは、韓国人の日常生活を見つめる監督の目が表層的な所だけに止まらず、自己批評性とも言うべき鋭利さを持っているからである。
 
 この映画はマンションというきわめて限定された狭い空間を扱っているのにも関わらず、その中に韓国的としか言えないような独特の生活風俗がこれでもかという位豊富に出てくる。韓国人の日常生活を教えるなら、いいテキストになるだろうと思えるほどである。
 
 ユンジェが大学院を出ても専任教員になれず、悶々としたフリーター生活をしていること、大学に職を得るためには1500万ウォンの賄賂が必要なこと、家庭では会社員の妻に頭が上がらないで妻の食事を作ったり、命令に逆らえない立場にあること。等々。そこには知的な職業・地位を志しながら志どおりにはならず高級遊民・フリーターでしかありえない男性知識人の卑小さへの自己批評があり、風刺がある。
 
 マンションという空間を舞台にしているため、そこには警備員、独り者の犬だけが身内の老婆、地下室で暮らすホームレス、文房具屋の女、管理事務所の職員であるヒョンナムなど、現代の韓国社会を構成する様々な人物が登場する。しかしそこには大きな物語に通じるような人物は登場せず、みな卑小な日常生活を生きてゆくしかない存在として描かれる。家庭では強者である妻のウンシルも、11年間働いた会社を子どもを妊娠したと言う理由だけで首を切られ、わずか1600万ウォンの退職金をもらうだけという卑小な存在だったのは変わりなかったのである。
 
 ではこの卑小な人間たちの住む韓国社会には出口はないのだろうか。卑小さから逃れる道はないのだろうか。ヒョンナムという女性は、卑小な日常生活の中で計算もできずに上司からいつも怒られながら、他人の事件(犬殺し)に関わってゆき追跡してゆく人物であり、卑小な生活の中でも正義と自由とがあることを暗示してくれる人物なのだろう。彼女は犬を救出するというまったく無償の行為に自分から進んで関わっていくし、テレビに映りたいという正義感の持ち主でもある。現代の大衆社会でのヒーロー的な存在なのである。彼女が犬を救出するために駆け出していくときに、群集が背後で手を振って応援する幻想の場面はそのことを表している。彼女が結局管理事務所の首を切られ、女友だちと共に山に登ってゆく場面で映画が終わっているのは、卑小な日常生活からの出口を暗示しているだろう。
 
 他方で、ユンジェは願いどおりに大学に就職が決まり、教壇に立ったことが示されて映画が終わる。しかし教壇で学生に教える彼の目には、空虚さが満ちている。彼は卑小な生活を懐かしんでいるのだろうか。それとも大学教授となった後にも、やはり卑小な生活が続いていることに気づいた目なのだろうか。
 
 卑小な生活であるけれどもそこには日常生活の愛おしさがあり、都市伝説的な肌触りの密度がある。マンションの空間とはそんな愛おしさと密度の空間でもあったのである。そこから上昇し、教授となったユンジェはおそらく卑小な日常生活を愛おしく回顧していたのではないだろうか。地下室で、屋上で犬殺しをしていた自分の過去を。
 
 ちなみにこの卑小だが、密度があり濃密さがある小さな共同体への愛憎なかばした感情は、その後のポン・ジュノが繰り返し描くことになるテーマでもある。