ブンミおじさんの森

 今日は2010年のカンヌ映画祭パルムドールを取った『ブンミおじさんの森』を見てきた。アビチャッポン・ウィーラセタクン監督、イギリス・タイ・ドイツ・フランス・スペイン合作。
 
 死期を間近に控えたブンミおじさんの前に、死別した妻や行方不明となっていた息子、といった愛するものたちが現れる。彼らは幽霊や生霊なのだが、それを驚くことなく受け入れてゆくその境界のなさ、ゆるやかな感じがとても独特だった。
 
 このような幽霊ものはもちろん日本にもあるし、死に別れた妻が戻ってくる映画も多くあるだろう。ただ、それを空気のように受け入れ、境界をいつ超えたのか分からないような自然さで描くのはやはりタイの監督ならではの死生観があるのでは、と思えた。
 
 行方不明の息子は、森に入り猿の精霊の後を追ってゆき、ついに自分も猿の精霊と化している。王女は自分の身体をすべてを湖にゆだね、ナマズと交尾する。人間と動物たちとの境界もまた踏み越えられ、人間という概念は解き放たれてゆく。
 
 そのような解き放たれた人間観と自然観との中で、主人公は死を迎えてゆく。その死さえも悲劇的なものではなく、少し境界をあちらに越えたということなのだろう。死の場面(葬式の場面)はとても短く、すぐに別の日常が続いてゆく。僧侶の修行をする息子が帰ってきて僧侶の服を脱ぎ、シャワーを浴びて普通の若者に戻って、飯を食べに行くところで突然映画は終わりを迎える。
 
 われわれの映画観からすると、起承転結もなく、とりとめもないストーリーのようだが、それがこの映画の本質を表しているのだろう。生死はゆるやかに連続していき、動物になることもあるし、また幽霊として戻ってくることもある……、それは日常の中の出来事であり、ファンタジーでもなくSFでもない、と言ったところだろうか。
 
 原作は前世のことを記憶し、思い出せる男の話のようだが、むしろ前世の記憶も死後の記憶もすべてが境界を超えてゆるやかに結びつくような、そんな世界観のような気がした。死後の世界でもまた、記憶は生き続け、人は動物に転生し、動物は人間に転生し、記憶は連続していく、そんなアジア的な生死観が不思議に快かった。