震災日記23

 震災から今日で2ヶ月。最初の1ヶ月と比べると、この2ヶ月目の時間の流れはずいぶん緩やかになった。まだ時折ヘリコプターが飛んだり、救急車が走っていく音はあるが、ほぼ平常時に近づいてきた実感がある。
 
 今週から新学期が始まったので、昨日今日と授業があった。これまでの震災モードからなかなか抜けられず、しばらく慣らし運転をしようかと思っていたが、学生たちの顔を見るといつもとほとんど変わらないので、こちらもしゃんとすることにする。
 
 自己紹介を兼ねて、震災のときの様子を作文してもらったが、思ったよりも大きな被害を受けた学生は少なかった。不意に長期の休みが与えられたので、多くの学生が自動車学校に通って免許を取った、と書いていた。それからボランティアや募金活動をしたという学生も相当数いた。
 
 中には津波で亡くなった学生の友達という子もいたり、また親戚や祖父母が家を流されたという学生もいるにはいたが、自分自身の家が流されたり両親が亡くなったりというケースは見た限りいないようだった。
 
 東北大学では2名の学生と、1名の入学予定者が亡くなり、500名の学生の住宅が流されたと新聞報道で聞いていたので覚悟して行ったのだが、それに比べれば被災の程度は軽いようだった。
 
 宮城県全体で考えれば約200人に1人の割合で人命被害があったので、それに大学の人数を掛け合わせると2万4千÷200で、ほぼ120人くらいの被害が理論的にはあるはずになるのだが、実際の教職員の被害は0名、学生・入学予定者が3名というものだった。
 
 もちろん被害者の多くが高齢者であったということを割り引いても、このことは大学の構成が、宮城県の平均的な人口構成とはかけ離れていることを表しているだろう。また、被災地となった海岸部が都市部とは本質的に異なる地域であったことをも表している。
 
 都市部は被害も少なく、復旧も速やかに行われ、それに対して沿岸部は甚大な被害を受け、復旧のめどさえも付いていない。このような矛盾を考えるときに、心は痛む。つい目と鼻の先にある地域に、意識しえなかった中央と辺境、都市と周辺部の構造があって、それが震災によって劇的に露呈したのである。その矛盾に無意識だったことを恥じるべきだし、せめて学問の中にその無意識を意識化する作業を繰り入れていかなければならないだろう。被災地に現れた矛盾から、これまでの(都市的・中央的な)学問は眺めなおされるべきだし、そこから出発すべきなのである。