震災日記16  飢餓感について

 仙台の様子は、だいたい60〜70パーセント位復旧が進んだという所。すぐに復旧できる個人住宅や商店はほぼ復旧を終え、大きな施設や建物はまだ手付かずに残っている。交通、食料品、燃料類はほぼ震災以前の状態に近づいて、スーパーも空白の棚が目立たなくなってきた。と言ってもまだけっこう空いている棚はあるが。
 
 研究室もようやく3部屋全部(院生室、資料室、個人研究室)復旧を終え、いくらか平時の日常に近づいてきた。まだ建物自体はひび割れと落ちた外壁の残骸があって、廊下には破損した家具・家電類や段ボール箱などが所狭しと並んではいるのだが……
 
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 今日は震災後の飢餓感について記録しておきたい。
 
 震災直後、すぐに皆が買い求めたのは懐中電池とカップラーメンなどの非常食料類だったことは、記録しておかなければならない。地震が収まり、家族の安否が確認できた後、すぐに開いているコンビニ、スーパーに多くの人が向かった。ちなみに信号は停電で消えており、帰宅する車と人で通りは大渋滞だったことは今も記憶に生々しい。開いているコンビニは稀だったが、あの震災直後に店を開けてくれていたコンビニには深い感謝と敬意を払いたい。停電でレジも動かず、店の明かりもない中で、おそらく自宅の様子や家族の安否も不明な中で、あるだけの商品を電卓で計算し売っていた姿は、いつまでも記憶しておきたいものだ。
 
 それ以後、カセットコンロでの食事が1ヶ月続く。
 
 カセットコンロでの食事はすぐに慣れたが、しばらく流通がストップしたためにスーパーで食料を買うのが大変困難だった時期が続いた。スーパー自体がほとんど閉店していたが、開いていても店の前で限られた商品(震災前に仕入れたもの)を並べて、一人10点とか15点までの制限をして売っていた。もちろん大行列つきで。
 
 この時期、食料品を入手することが大きな日常の課題となった。ガソリンも不足していて遠くのスーパーに行くことはできず、何とか近場のスーパーを渡り歩いて、調達に勤めた。震災後1週間目位のことである。
 
 わりあいと早い時期にスイーツ系の店(ケーキ屋、たいやき屋、団子屋など)は再開していて、この時期に多くの行列がそのような店にできるようになる。もちろん食糧事情のためであるが、一方でスイーツに精神的な癒しを求める一般的な精神的状態があったことは否定できないだろう。
 
 とにかくスーパーに行っても何もない状態で、あるものは買っておく習慣ができ(買いだめですね、すみません)、食べられるときに食べておかなければいけない強迫感が生じた。街にも研究室にも行けない状況下で、食べることくらいしかなかったとも言えるのだが。
 
 そのような強迫感のために震災後、よく食べるようになった。常に空腹感、飢餓感があり、それが後押しをする状態でもあった。
 
 1ヶ月が過ぎ、物流が回復し、スーパーにも食料品が並ぶようになって、だいぶ回復はしたが、いまだに時々飢餓感にさいなまれる時がある。震災のフラッシュバックのようなものだろうか。記憶を思い出すと、飢餓感にさいなまれるのである。
 
 おそらく戦争中、戦後直後などの時代にも同じような飢餓感の強迫感にさいなまれた人々は無数にいただろう。現在も無数にいるだろう。そのような飢餓感を経験できたことで、戦地や紛争地の日常に思いを馳せることができるようになった。これも震災の教訓の一つだろう。