オリンピック開催地決定

 
 オリンピックの開催地決定が今日行われる。今、第1次投票が行われて、イスタンブールと東京とが決選投票に進むことに決定したところである。テレビではプレゼンテーションから放送していたので、東京のプレゼンテーションも見ていたのだが、かなりヒューマニスティックな部分を強く打ち出していた――震災復興や、スポーツの果たす役割、オリンピックムーブメントとの関わりなど――ので、それがアピールしたものかもしれない。
 
 ある意味で、震災が利用されたという気がしないでもないが、東京にとっては好機をつかんだという所だろう。都市間競争の中で、震災はヒューマニスティックな訴求力を持ったと考えるべきだろう。
 
 東京でのオリンピックに関しては、なかなか歓迎する気にはならなかったが、震災の影響が心理的な部分もあると考えれば、オリンピックはそれをある意味で好転させるきっかけにはなるかもしれない。少なくても震災を大義名分に掲げた以上、2020年までには目に見えるような復興の成果を上げることが求められていくだろう。それは好機であるはずである。
 
 ここの所ずっと雑事にかまけて被災地にも訪れていないし、震災のことを考えることもだんだん間遠になってしまっている。ちょうど論文の手直しがあって、もう一度震災について考え直すべき事情があるので、オリンピックのことはちょうどよい契機となった。
 
 震災直後なら、このようなオリンピックの震災利用についてはとても肯定する気にはならなかったと思うが、今はむしろ利用してそれを梃として世界的に震災が名分となり記憶されるのであれば、それはそれでよいと思うように変わった。それは何なのだろう。何が変化したのだろう。震災直後のある意味で直接的な感情が変化したということだろうか。それとも復興が徐々に進んできたということなのだろうか。今はむしろ震災を風化させないことの方が重要だと思うようになったということだろうか。
 
 震災をほとんど忘れていることは恥ずかしいことだが、何にせよ次に向けて進んでいかなければいけないのも事実である。震災に立ち尽くしているのではなく、そこからどのように次を構想して、次の一歩を踏み出していくのか、それを考えなければいけないような時期である。おそらく仙台(市内)はそのような段階にあるのである。その意味でオリンピックは次の一歩につながりうる好機になりうるという気がしているのである。

              ☆
 
 今、最終的に東京でのオリンピックが決定した。決定の瞬間にはやはり感動した。
 
 56年ぶりのオリンピック、その間のことを考えれば天地が変わるような変化をしたものだと思う。日本も日頃は感じないものの、56年の間に国際的なプレーヤーとなったのだと感じる。このオリンピックによって、日本の国際化もより一段と進むことだろう。それは大きな希望である。このオリンピックが日本の社会構造を大きく変えていくものとなるだろうことを期待し、願っている。