『トガニ』

 
 レポート採点に追われている合間を縫って『トガニ』を見る。コン・ジヨンのベストセラー小説を映画化したもので、だいたいの粗筋は知っていたもののその重さに圧倒された。
 
 霧津という地方都市にある聴覚障害者の学校を舞台にして、そこの校長・行政室長・教員による組織ぐるみの生徒への性的暴行事件を扱ったもので、とても衝撃を受ける。その事件の圧倒的な悪質さということもあるが、事件の舞台が障害者の学校であり、校長の一家によって支配されている閉鎖的な空間であることもその息苦しさを倍加させている。
 
 その閉鎖的な空間の中で、教育のためという名目で回っている洗濯機に首を入れられたり、教員室で日常的な暴行が繰り広げられている。新しく来た主人公の教員がそれを目撃するのだが、そこには校長や行政室長による性的暴行事件が何年にも渡って続いていたことを知るようになる…というストーリーだが、この事件がとても息苦しいのは普遍的に閉鎖的な空間での暴力事件が持つリアリティによっている。家族のDVも同じような息苦しさがあり、また大学などでのパワーハラスメント、職場でのセクシャルハラスメントなどと通じる普遍的な構造を持っている。
 
 閉鎖的な空間の中で、コミュニケーションに問題があると、その齟齬は急進化して過激なものとなる。教育のために、あるいはしつけのためにという名目の下で、その齟齬は暴力となり、日常的なものとなっていく。
 
 この構造が息苦しいのは、外部からは見えない空間の中でのものであり、外ではその暴力をふるう同一人物が温厚な人だったり、地元の名士だったり、大学の有名教授だったりすることがままあるからである。この『トガニ』でも校長やその一家は地元の名士で、篤実なキリスト教信者でもある。警察も彼らの名声を憚って捜査を行おうとしないし、裁判も彼らに有利なように運ばれていく。検事、警察、なども彼らの側なのである。
 
 暴行の被害者が、10代の障害者少女や少年であり、陳述をできないのを見越して彼らは暴行をしたのであり、それが発覚した後でもその世間的な権力と名声を利用して、被害者たちを丸め込もうとしたり、あるいは金で懐柔しようとしたりする。
 
 この構造は大学でのセクハラ、パワハラとまったく同様であり、おそらく家庭内でのDVでも同じようだろう。この密室での暴力事件はだから普遍性をもったおぞましさを持っていて、戦慄を覚えさせる。
 
 この映画ではその暴行事件だけでなく、例えば校長によるワイロの強要(発展基金という名目で新入教員から寄付を受けるもの、何百万円〜1千万円ほどらしい)が描かれていたり、また主人公の母親によって「校長の悪い所は目をつぶって、見ざる聞かざるで過ごしなさい。」という世間の事なかれ主義のあり方が描かれていて、そういう意味でもリアリティがある。主人公は身体の悪い娘をもっていて、その娘のことを思う気持ちと、暴行事件を告発する間での葛藤も描かれている。校長側はその主人公の抱えている葛藤を突いてきて、娘のことを思ってこれで告発を取り下げてくれるようにとお金を提示したりする。将来の安定した職も提示する。そんなやりとりのリアリティもあって、とても戦慄を覚える映画であった。韓国社会の不条理を告発したものでありながら、きわめて普遍的な権力構造に絡んだ事件の持つリアリティを先鋭に描いた映画だった。