フォールタビリティ(faultability)の話

 
 日本の文明・文化がどこか窮屈で居心地悪く感じられるのは、人間のフォールタビリティ(faultability)に対する寛容さが足りないからではないかと思える。平凡な言葉でいえば、人間とはいい加減で間違いやすいものだ、という人間の誤りやすさへの寛容さのことである。
 
 このフォールタビリティということは、人間が根本的に誤りを犯しやすいということに力点があるわけではなく、誤りを犯しつつもしかしながらそれをリカヴァーし、さらに以前よりもよりよい人生、文化、社会を作りうるという人間への信頼をも含めた概念である。つまり言い換えれば、人間とは誤りと反省とを含み、偉大さと卑小さとを含んだ存在であるというトータルな人間概念をも包含しているものである。
 
 日本での人間概念がそのようなトータルな幅を持っていないことのために、日本の社会はとても窮屈なものとなる。誤りには不寛容で、厳罰というペナルティが課され、彼/彼女のその後のリカヴァーという可能性はほとんど存在しえなくなる。受験の失敗、就職活動の失敗なども同様で、その後の人生におけるリカヴァーはとても狭い道を通ってのものとなる。
 
 このことがどれだけ人間の可能性を狭め、さらには日本の社会の可能性をも狭めているものであるのかは、想像に余りある。アメリカでも韓国でもいいが、だいたい人生は失敗と再起とトライアル&エラーの連続であって、その中で人間の偉大さも発揮されてくるのである。失敗のない人生に、偉大な輝きも存在することはないのである。韓国社会がとてもダイナミックであるのは、韓国人がすぐに失敗しても再起して別の人生の局面を切り開くすべに長けているからである。実際、韓国に住んでみるとすぐに店はつぶれ、明日には次の店が入っているのを目撃することになる。失職して、再起する物語はあちこちに遍在しているのである。
 
 そのようなトータルな人間への認識がより人間的で、本質的であるのは言うまでもないし、さらにはそのような失敗を経て、認識が深まることにおいて、人間認識・社会認識の深みというものが生まれることで人間はより良いものへと接近しうるのである。失敗したものはそれだけ深い認識を得ることができるし、そのことでリカヴァーする可能性もより高まるはずなのである。
 
 失敗する可能性、フォールタビリティを封殺することは、そのような社会認識や人間認識への深い洞察をも放棄することにつながり、そこには平板な人間認識や社会認識の風景が広がることになる。まさに現在の日本で広がっているのは、そのような平板化された風景であると言うしかない。
 
 フォールタビリティの欠如が持っている最大の罪は、そのような失敗の本質を直視しえないことにあるのだと思える。戦後の日本が戦争責任や戦前の統治体制の誤り、植民地支配の誤り、その他失敗の本質について熟考する機会を持たず、直視しないことで深い歴史認識を持ちえなかったことは悔いても余りある。そのことは日本の深い社会認識や歴史認識に至る機会を奪い、大きな損失を与えるものだったと言ってもよい。
 
 このフォールタビリティの話は、実はNHKドラマ「いつか陽のあたる場所で」(火曜日22:00)を見ての感想である。犯罪を犯した二人の女性が人生をリカヴァーしようとする話。その苦難の話を見ての感想である。ただ、そこでは苦しい道を通って二人のリカヴァーがなされていくような話の展開となっている。