アイヌ断想

 
 明日、ドキュメンタリー映画『TOKYOアイヌ』の上映会があるため、アイヌに関してにわか勉強をする。また、明日コメンテーターをしていただく弓野恵子さんに今日お会いして色々と貴重なお話を聞く機会も持った。
 
 その中で感じるのは、例えば他の日本のマイノリティ(在日コリアンや沖縄など)といった所とは違う何か徹底した同化政策のもたらした悲しさとでも言うべきものであって、アイヌは「アイヌであること」をまだ堂々と主張できない人々の割合がとても高いということの持つ悲しさとでも言うべきものである。
 
 アイヌは他のマイノリティと違って、すべての文化と言語と生活の場を失ってしまった民族である。松前藩の時代からであるから、時間の長さということも関係しているのだろうが、その程度は徹底している。それゆえ、「アイヌであること」の根拠を求めること自体がとても困難であるという印象を持った。
 
 今日お会いした弓野さんも小中学校時代、アイヌであることはとても嫌なことであるという刷り込みをされ、中学校卒業後上京して差別の少ない首都圏で長く暮らしてきた。その後、50歳前後になってようやく「アイヌであること」を受け入れ始め、言語や刺繍といった文化を学び始めるという経験を持っている。
 
 首都圏で5000人とも10000人とも言われるアイヌが住んでいるそうなのだが、彼らは例えば新宿の人ごみの中で出会うとお互いに顔をそむけるのだそうである。「アイヌであること」が公けに分かると不都合が起きるという思い込み(あるいは刷り込み)のために、互いに顔をそむけ合うのだそうである。このことはとても悲しいことであると感じさせられた。
 
 首都圏に住むアイヌの実態調査を最近2009年だったかに行ったそうなのだが、それに答えた人自体もとても少なく何百人という単位だったそうだが、その中で半数は今後このような調査には答えない、答えたくないという反応を送ってきたとも言っていた。つまり、「アイヌであること」を隠し、あるいは離れて暮らしたいという人が大部分であることをそのことは示している。
 
 このようなアイヌの現状を知るとき、われわれがアイヌの文化の啓蒙や復権を唱えることはどういう意味があるのか、考えざるをえない。アイヌの文化は先住民の文化として価値のあるもので、アイヌとしてのアイデンティティを持って暮らしてほしい、というようにわれわれは言うことができるのだろうか。カミングアウトしてアイヌであることを公言してほしいと言えるのだろうか。
 
 このことは在日コリアンの場合にも実は当てはまる問題で、本人がそれを隠して、あるいは離れて暮らしている時に、それをわれわれ外部の者が何か言えるのかという問題は実に微妙で厄介な問題である。
 
 われわれができることは、本人の意識やアイデンティティの問題とは別のところで、アイヌの実態や過去を啓蒙していくこと、そしてそれが例えば在日コリアンや沖縄といった他のマイノリティの問題と共通した問題であることをサジェスチョンすること位でしかないのだろう。
 
 私がそのようなアイヌの現状を聞いて考えたのは、マスコミのパブリックアクセス権のことである。つまりアイヌにとってマスコミは「他者」のものであるが、それを変えて自らマスコミに主体として番組の編集や制作に関わっていく権利を持つことができないものだろうかということである。このようなマスコミへのパブリックアクセス権がアイヌに保障されたならば、「アイヌであること」をめぐる状況は変わっていくのではないかと考えられるのである。
 
 このことは夢物語ではなく、実は台湾では現実化していることである。台湾にもたくさんの先住民がいるが、彼らは90年代に先住民の権利を主張して、先住民チャンネルを獲得している。そこで先住民の言語で、彼らの文化などを紹介する番組を作ったのである。台湾と日本の状況は違うと思われるかもしれないが、例えばNHKで1週間に1本でもいいからそのような番組(アイヌが主体的に制作する番組)を作れれば、その番組自体が「アイヌであること」の発信となるはずである。
 
 このことは震災被災者のパブリックアクセス権にも関係している。被災者にとってもマスコミに報道されないということは、死活にかかわる問題であるのは同じであるからである。マスコミへのアクセス権を保証して、様々なマイノリティの声を届けるような試みがこの日本でも行われるようになれば、というのは夢物語だろうか。そんな日が来ることを祈っている。