年末雑感

 
 今日は娘が半年ぶりに帰省した。東京からバスに乗って6時間かけて来たので疲れたようだったが、家に娘が来ると家の中が女子会モードになる。にぎやかにおしゃべりをしながら遅い夕食を食べた。
 
 ところで、年末は少し時間ができたので3月までの原稿準備も兼ねて李光洙の『民族改造論』を読んでいる。和田とも美氏の著書によって「民族問題」と「恋愛問題」とがリンクしていることが気になって読む気になったものだが、色々と考えさせられることが多い。特に震災以後のナショナリズム的な動きとこの李光洙の「民族」言説とは重なって見えてくる部分が多い。
 
 災害以後の言説ということでいえば、韓国における日韓併合=国権喪失という事件も一種の人為的な災害という面がある。その災害後における「民族」言説への傾斜は、ある普遍的な傾向を示していると言える。関東大震災後の日本主義もそうだし、今回の大震災以後のナショナリズム的な動きもおそらく同様の普遍的な傾向のうちにある。
 
 李光洙が『無情』の最終部において洪水被害という災害の場面を入れたのはその意味で必然的な意味があったと思える。国権喪失という人為的な災害が、この小説においては洪水の災害という自然災害に置き換えられて表現されていると言えるだろう。
 
 「民族」という言説が当時、新たな問題領域であったことは確かである。自分の周囲の家族や親族や党派を超えたものとしての「民族」は、無意識の領域の発見という意味でフロイトの無意識の発見とも共通性を持っている。おそらく19世紀末の映画の発明も、そのような「民族」の発見と重なった問題領域を共有しているはずである。
 
 李光洙が直面したのはそのような想像を超えたものとしての(無意識としての)「民族」をいかに想像可能なものへと変容させ、それを現実化するのかという問題だった。一方においてはそれはネイティブとしての旧女性(英采)や、下宿の老婆などのようなネイティブの物語を通して現実化されたものであったし――この点は映画の語りと共通している――、また他方ではそのようなネイティブが新学問をし、新女性となることへの政治的プログラムへの試みへと向かったように見える。『民族改造論』で述べられているのは、後者の政治的なプログラムである。ネイティブの中から覚醒した新人を誕生させ、それを集団意識にまで高め、国家の中枢を担わせるという壮大なプロジェクトである。
 
 だからこのような李光洙の「民族」言説の中で「民族」は二重のアクセントを持ったものとなったと考えられる。一つは「無意識」としてのネイティブらの物語を小説化(映像化)することであり、もう一つは実践的なプログラムの中でそのネイティブを改造していくという課題である。この二重の課題が李光洙の初期の活動には見られるのである。「恋愛」(結婚、配偶選び)はそのような彼の小説の中で本質的な重要性を帯びていたのである。