腹ふくるる事

 
 今日は腹ふくるる事があって、ほとんど黙っていられない寸前まで行った。
 
 今日の教授会でのこと。教授会の数年間のテーマとして組織の自己改革をめぐる問題がある。私の所属する国際文化研究科という組織は1980年代の国際化の掛け声とともに作られた所なので、その後長いこと人気の長期低落傾向に歯止めがかからないでいる。このことは詳細に述べないといけないが、最初の頃の「国際化」ブームがあったころは優秀な学生も来ていたらしいが、その後留学生が急激に増加し、それとともに日本人学生が敬遠する傾向が生じて、その後人気も学生レベルも長期低落傾向にある、というのが大体の見取り図である。
 
 その状況を打開するためには、組織の自己改革が絶対的に必要であること、そしてできうるならば学術的な(ディシプリン的な)再構築が必要であることは目に見えているのだが、その議論は何年にもわたって進まずに迷路のような経過をたどることになる。なぜかと言えば、組織のメンバーを変えることは不可能(首切りはできない)だからその同じメンバーをもって組織の自己改革をすることは恐ろしく利害の入り組んだ状況を迎えることになるからである。たとえて言えば、メビウスの輪を解くような作業となるわけである。
 
 その自己改革の議論において、多くの者は抵抗派となる。あるいは守旧派と言うべきか。執行部とワーキンググループが長期間かかって出した報告案を、あれこれつついて議論の進捗はままならない。その繰り返しである。
 
 反対派はさも改革案の不備をあげつらい、その改革によってはさらなるレベルの低下がもたらされることを雄弁に述べるのだが、その正論は問題の根本を見失っており、議論を最初のところに戻すだけに過ぎない。なぜ長期低落がもたらされ、それに対する対策がどのように取られるべきか、そのような根本的な分析は抜きに、結局は既得権とこのままの長期低落とを放置する言説であるしかないのである。
 
 同じ低落をするならば、たとえ無駄な抵抗であっても改革を行い、自己改革の実験を試みて低落する方がましなはずなのだが、そのことは触れられない。
 
 日本の社会が自己改革能力を失って、重要な決断にひどく時間のかかる体質となってしまったことを批判するべき「国際」的な組織であるべきはずの組織において、日本の劣悪な組織文化がそのままに典型的に現れていることにため息をつかざるをえない。だいたい組織の持っているべき共同体的な感覚(理念、方向性、組織のことに情熱をもって取り組む姿勢など)が決定的にかけている。このような組織に未来はあるのだろうか。体たらくに腹ふくるる思いである。