相変らず

 
 平日、週末ともに忙しく立ち働いて、ようやく一息ついた。
 
 先週末は、東北大で「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録」の上映会を催して、その後東京の近代文学会に参加。1泊して昨日の夜帰ってきて、今日(火曜日)の授業を何とか終えてようやく一息ついた所。また明日、明後日と授業は続くが何とか週末を乗り切って平常に戻ったような感じ。
 
 上映会はちょっと不手際があって、DVDのディスクを研究室に置き忘れてしまい映画のボタンを押した瞬間にそれに気づいて青くなったのだが、それでも何とか尹校長の解説を先に回してしてもらうことにして乗り切った。たいへん未熟な不手際だが、よく考えると一番大切な事項(この場合DVDの準備)が盲点となったことは不思議だが興味深い。他の資料作成とか会場準備だとか、もろもろのことは気になって全部チェックしたつもりだったのに、映画上映そのものが死角となってDVDを忘れたということは何とも面白い。あまりに重要だとかえって死角に入って見えなくなってしまうものかもしれない。
 
 面白い発見だったけれど、しばらくトラウマとなって夢に見るかもしれない。その後、DVDを取りに戻って無事に上映もしたけれど、内心の動揺が続いたのは言うまでもない。
 
 
 近代文学会は、日曜日にあったパネル発表「文学と<例外状態>」を聞きに行くため。開催趣旨には東日本大震災への応答可能性と不可能性について文学研究からの応答と試みるというような趣旨説明があったので、たいへん期待して行ったのだが、その期待には残念ながら答えられなかったというのが正直な感想。
 
 震災へのアクチュアルな応答を期待して行ったというわけでもないが、文学研究の応答可能性についての考察や、文学研究の方法論的な自己反省のようなものが見られるかと思っていたわりには、3本の発表は素材こそ「戦争」「震災」という例外状態を扱ってはいたものの、従来の文学研究の枠組みを踏襲したものという感は免れなかった。
 
 しかし発表自体はそれなりに「震災」の非常事態(例外状態)を素材としてなりに自己省察しようとした痕跡はあったものの、それを回収するべき司会者の討論の持って行き方に難があったというべきだろう。司会者と発表者のやりとりで大半の討論時間を消費してしまい、むしろ自閉的な文学研究の印象を強めてしまった感じがする。もっと「例外状態」を実際に体験した日本文学研究者の声や体験に向かって開かれていくべきはずの場だったのにもかかわらず、自閉的な討論に終始したのは残念でたまらない。個人的にはああ、東京の人々は本当の例外状態を体験しなかったし、連続性の中にいるのだなあ、という深いため息をついたことだった。震災直後の絶望感をまたもや思い出したことだった。