クォン・ミョンア『植民地以後を思惟する』(권명아『식민지 이후를 사유하다』)

 
 長い序文が付いていて、この著の問題意識の背景と著者の個人史との関わりや、アカデミズムの現状への批判的介入など、あるいはジェンダーや学閥、地方などの様々な機制によって弱者として疎外される人々への解放の企図など、実に多くのことが語られている。制度的な学問的著作というよりも、書かれずにはいられない内的な衝迫のようなものを如実に感じさせてくれる序文である。
 
 一番大きなポイントは、植民地以前と以後とを大きな枠組みのなかで同一のパースペクティブで捉えたい(捉えるべきである)という試みである。あるいは倫理といってもいいかもしれない。このことは日本を例にとっても困難な作業であることは容易に理解される。戦前の国民意識(主体化の方法)と戦後の国民意識とを同じパースペクティブの中で捉えることは相当な力仕事であるはずである。そのことをクォン・ミョンア氏は誠実に、あるいは倫理的な義務として遂行しようとしている。
 
 この序文を読んで理解したのは、韓国の現代史において<戦後>は二重の構造を持っているということだ。日本の太平洋戦争において、韓国も戦争を経験したがそれは皇民化という自らの文化を奪われる経験であり、それを一つ目の<戦後>において取り戻すこと、すなわち国民としての主体化が差し迫った問題となった。解放後の空間において、国民の主体化と日本の影響の除去は鋭い論点となった。
 
 しかし、1950年の朝鮮戦争とそれによる徹底的な破壊を経て、二つ目の<戦後>において国民意識の主体化は別の様相を取ることになる。軍事政権の下で、国民意識は強制された国家的な道徳として実現され、本質的な脱植民化の作業は留保され、延期されたのである。
 
 だから、韓国において脱植民化の作業が本格化するのは、民主化が実現する1990年代を待たなければならなかった。慰安婦問題、独島問題、親日派問題などの脱植民化の問題(歴史認識問題)が提起されるのが1990年代以降であったことはそれを証している。
 
 だから韓国において本当の意味での「脱植民化」の問題、つまりポストコロニアルな問題は実は二重の<戦後>にはばまれて解決しきれていないということになる。クォン・ミョンア氏のこの本は、その意味で二つの<戦後>をはさんで、太平洋戦争下の主体意識と、現在の主体意識とがどれほど異なっているのか、あるいはどれほど共通しているのかを探るものでもある。それはつまりポストコロニアル課題、脱植民化の課題が二つの<戦後>以後の現在においてどれほど進んでいるか、あるいは進んでいないかを再検討する作業となる。そのことは実は日本においても必要な作業なのだと感じさせられた。
 
 クォン・ミョンア氏のこの本は、そのような大きな課題を、更にジェンダー政治という視点から試みるというほとんど力業を行っている。ジェンダーという基本的な線によって二つの<戦後>が架橋されていると言ってもいいかもしれない。ジェンダーというこの本のモチーフは、男女の間での力関係だけではなく、中央/地方という構造、学閥という構造、疎外された他者としての少数者たちへの視線を開いている。このような少数者への視線、そしてその少数者の生の解放への実践的な関心に開かれていることも強い印象を残す。
 
 それは制度的な学問(アカデミズム)が民主化以降の2000年代に入って、実践的な関心を薄れさせ、学問的な言説になってきている現状を批判的に介入することにもつながっている。ポストコロニアリズムが学問的な言説として、実践的な介入を行いえていない現状についても(レイ・チョウの著書を媒介として)触れられている。この「植民地以後を思惟する」とはだからポストコロニアリズムへの実践的な介入であり、批判でもありえているわけである。
 
 このような日本で言えば深い批評的な企図が、学問的な著作として行われているのは実に示唆的で羨ましいことだと思える。加藤典洋の戦後論を、学問的な方法論と、熱い実践的な意図によって突破しようとしたような印象を与えるものであった。日本のアカデミズムでもこのような<戦後>を問う批判的な介入は可能だろうか。いや可能でなければならないのだと考えさせられた。