弱音

 今日は弱音を書く。後期に入ってから仕事が重畳して、平日も週末も仕事にかかりっきりで余裕をなくしている。睡眠時間を削りながら目の前の仕事を一つ一つこなしていると、だんだん緊張が取れなくなって心身の調子が悪くなってくる。今週も忙しくしていたら、顎の間接が痛くなった。こんなことは今までなかったのだが。それはすぐに治ったけれど、今日は脚の関節や腰が痛い。全体的危機というものである。
 
 先週の週末をつぶして、韓国でのシンポジウムの原稿を書いて、週明けに授業と会議をこなし、授業の合間で研究費の書類を書き直し今日何とか提出して、今日は授業準備がない隙間で学会誌の査読を5本しなければならない。月末締め切りの自分の原稿2本は、そのうち1本を何とか来月下旬まで延ばしてもらうように交渉した。本当は今週の週末も東京出張なのだが、とてもかなわないので欠席しようと考えている。
 
 そんな生活なので、以前のようにYouTubeも見られないし、フェイスブックもおざなりに見るだけとなっている。震災後の数ヶ月の静寂と充実した時間が懐かしいのである。以前、老年の人の記憶は何歳のときが一番多いかという統計を見たことがあるが、10代から20代がもっとも多く、その後30代、40代と減って行って50代は一番少ないのだそうだ。60代以後は最近のことなので、また統計が上がっていく。50代は要するに社会的な役割の中でだけ生活するのだから、記憶が残るはずはないわけだ。もっともなことと納得した記憶がある。こんな生活で、美しい思い出が残るわけがないというものだ。