ジョン・スイル監督『ヒマラヤ、風のとどまる所』(전수일 감독『히말라야, 바람이 머무는 곳』

 この映画は、特別な映画だ。映像が思索しているような映画。ひどく思索的な映画だ。普通の映画鑑賞のコードを持ってみると、単調でストーリーの起伏もないし、俳優の演技も淡々としていて手持ち無沙汰になる。
 
 しかしだんだんとこの映画は思索を促しているのだと気づいてくる。映像はすばらしく澄明で、ヒマラヤの空気をそのままに映し出している。いつかずっと昔にヒマラヤに自分はいたのではないか、前世でヒマラヤに暮らしていたのではないか、という気持ちに陥る。それほどヒマラヤの空気は美しく、今そこで空気を確かに共有している気持ちになる。
 
 この映画は悲しみを主題としている。悲しみは人間世界の色々な事件や、失業、家族の不和などという条件によってもたらされるが、それを越えた人間の普遍的な悲しみというものがあるのだ。そのことを監督は言おうとしているように思える。主人公チェ(チェ・ミンシク)が街まで行きアメリカにいる妻に電話をかけて、そっけない反応にすぐ電話を切ったその帰りに嗚咽する場面があったが、それは失業や、家族との別居状態、などという条件を越えて、何か普遍的な人間存在の悲しみというものを伝えてくれる。
 
 その後、彼が白い馬に出会いふらふらとその後について山に行った後、そこから戻ってきて高熱を出し、その背中をドルジの妻が抱いて撫でてあげるシーンも、だから人間存在の悲しみを癒してくれる重要な場面なのだと思われる。
 
 題名ともなっている「風のやむところ」とはだから、人間の悲しみが止まるところ、ということを意味しているのである。チェは馬の後について、その悲しみの止まるところまで行ったのだろうか。最後に、風にドルジの遺骨を撒いて、チェはふたたび旅立つ。また風の吹きすさぶ世界へと、帰還していくのである。
 
 この映画はもう一度、精読しなければならない。