小津安二郎『宗方姉妹』

 最近、小津安二郎映画が面白くなってきた。それもどちらかと言うと世評の高くない、失敗作と呼ばれている作品の方が面白いのである。例えば『風の中の牝鶏』とか『宗方姉妹』のような作品である。『秋刀魚の味』もいい。
 
 何がいいのかというと、〈戦後〉というものを小津安二郎がどう捉えていたかが読み取れ、その中に生きる人物たちをとてもリアリティ溢れる形で造形しているからだ。実はそう思われているよりもずっと、小津は〈戦後〉と真っ向から向き合った監督なのである。
 
 〈戦後〉を彼はテーマとして選び取った。そのことは戦後初めての作品『風の中の牝鶏』によく現れている。そこには戦地からの復員、夫を待った妻、その間に生じた夫婦の葛藤が、戦後の風景と共によく描かれていた。そして〈戦後〉を描き続けたのは最後の『秋刀魚の味』までずっと変わらず続いたのである。
 
 しかし、家族(とそのすれ違い)のテーマを正面に出した『東京物語』や『晩春』の方が完成度が高く、世評も高かったためにそちらの方が小津の主流とされ、〈戦後〉を正面から扱った作品のほうは傍系とされ、失敗作とされてきたのである。
 
 今日は『宗方姉妹』を見たが、これも〈戦後〉を正面から扱った力作である。〈戦後〉によって何が変わったのか、人物たちに何か起こったのか、を正面から向き合い描いている。
 
 『宗方姉妹』は父親(笠智衆)と二人の姉妹(田中絹代高峰秀子)、そして姉の夫である三村(山村聡)、そして姉の初恋の人であり今も何かと姉のことを助けている田代(上原謙)とが主な登場人物であるが、彼らはみな戦争を潜り抜け、そして〈戦後〉に変わった風景の中を生きている。
 
 彼らは戦前、大連で暮らしており、戦後内地に帰還したという設定となっている。つまりこの家族は「引揚者」であり、この映画は「引揚者」の物語なのである。大連で暮らしていたという設定は偶然ではなく、おそらく外地で何不自由なく暮らしてきた一家が内地に帰還して遭遇することになる状況をこの映画が扱っていることを示している。
 
 特にこの「引揚者」としての状況をよく表しているのが、姉の夫である三村である。彼はエンジニアらしいが、長く仕事がなく失業者として暮らしている。何度も職を求めて歩き回ったが何も仕事がなく、今では毎日酒を飲んで遊び歩いている。その夫に代わって妻(田中絹代)は自ら銀座にバーを出して、そこで働いて家計を支えている。
 
 この夫婦の設定には〈戦後〉の「引揚者」たちの被らねばならなかった状況や苦難がよく表されていたと思われる。そして、そのために夫はいじけた性格となり、妻のことを疑ったり、ねちねち過去のことを問い詰めたりする。この夫の性格も「引揚者」の性格として理解すると、よく理解される。
 
 この夫の抱えている暗さ、執念深さ、のようなものはもっとも映画の中で印象的な部分である。それに対して、妹の高峰秀子は〈戦後〉の新世代を代表していて、明るくおしゃべりや演技を行う娘として登場していて、対照的な存在として描かれている。
 
 この映画の悲劇は、この夫の抱えている暗さによって生起しており、彼の暗さは癌のようにこの宗方一家を蝕んでいくのである。結局、妻がバーのために田代から借金したことを切っ掛けとして彼は妻を殴り、そのために夫婦は離婚を決意する。
 
 しかし、妻が離婚を決意した時に、夫は再就職が決まったという知らせを持ってきて、その晩飲み歩いて帰ってきた途端に二階で倒れ、亡くなってしまう。妻の離婚の決意は結局彼に伝えらなかったメッセージとして残ってしまい、また彼の唐突な死が不吉な暗い影を死後も自分の上に投げかけていることを理由に、妻は田代との再婚を放棄し彼とも別れてしまう。
 
 夫の「引揚者」としての暗さは死後も家族(妻)の上に暗い影を投げかけ続けることになる。最後、京都の御所の中を歩く姉妹の姿を写しながら、明るいトーンで映画は終わるが、夫の影の中にいることは変わらない。
 
 それに対して、田代は大連時代や戦前の思い出を背負った人物であり、つまり汚れた〈戦後〉を負っていない人物なのだと思われる。彼との思い出は美しく、清らかである。妻が田代との再婚を放棄して、夫の影の中で暮らしていくことを決意したのは、〈戦後〉を引き受け、その影(汚れ)とともに行き続けていくことを選択したことを示している。言い換えれば〈戦後〉=夫の記憶を無として、田代との美しい思い出(=戦前)に生きることを放棄したことを意味している。
 
 小津安二郎の作品には、新しい生、新しい生活を拒否する人物がしばしば登場する。この『宗方姉妹』にも「新しいこと」と「古いこと」をめぐる姉と妹の間での議論が印象的に登場して「新しいこと」を拒否する立場が現れていたが、新しいことを拒否することの倫理性は小津安二郎映画の端々に透けて見える。
 
 この「新しいこと」と「古いこと」をめぐる姉妹の討論は、きわめてこの映画のモチーフに密接な関連をもった重要なものであったことが改めて分かってくる。長いが引用しておく。
 
姉「満里ちゃん、私そんなに古い? ね、あんたの新しいってどういうこと? どういうことなの?」
妹「お姉さん自分では古くないと思ってらっしゃるの?」
姉「だからあんたに訊いてんのよ」
妹「お姉さん、京都行ったってお庭見て歩いたりお寺回ったり」
姉「それが古いことなの? それがそんなにいけないこと?」
妹「‥‥‥」
姉「私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思ってんのよ。そうじゃない? あんたの新しいってこと、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃない? みんなが爪を赤くすれば自分も赤く染めなきゃ気がすまないってことじゃないの? 明日古くなるものでも今日だけ新しく見えさえすりゃ、あんたそれが好き? 前島さん(姉がママを勤めるバーのバーテンダー)見てご覧なさい。戦争中先に立って特攻隊に飛び込んだ人が、今じゃそんなことケロッと忘れてダンスや競輪に夢中になってるじゃないの。あれがあんたの言う新しいことなの?」
妹「だって世の中がそうなってるんだもの」
姉「それがいいことだと思ってんの?」
妹「だってしょうがないわよ。いいことか悪いことか、そうしなきゃ遅れちゃうんだもの。満里子、みんなに遅れたくないのよ」
姉「いいじゃないの遅れたって」
妹「厭なの。そこがお姉さんと私とは違うのよ。育った世の中が違うんだもの。私はこういうふうに育てられてきたの。悪いとは思ってないの」
 
 この部分において、姉と妹の議論という形で、〈戦後〉に対する対し方が議論されていた。〈戦後〉を新しいものとして追随することへの姉の倫理的な姿勢がよくここで示されていたのである。その条件を受け入れながらしかも倫理的にそれを拒否するという姿勢が。
 
 姉のバーに勤めるバーテンダーの前島は、特攻隊であったが、戦後にバーテンダーとなり遊び歩く男であった。彼のような変わり身の早さ、新しい生、新しい生活を受け入れることと、夫のように戦後の新しい生、新しい生活の条件に適応できず、破綻してしまうこと、そしてその間にあって、新しい生の条件を受け入れつつも変わることを拒否する姉の生きかた、そのような〈戦後〉への様々なタイプの対応のベクトルをこの映画は提示し、描いていたのである。