キム・ジウン監督『The Good, The Bad, The Weird』

 1、「満州」を舞台としていることの意味
 2、3人の男たちの持つコード
 3、冒険活劇――ジャンルの混交性
 4、The weird――奇妙な奴は生き残る
 
 もしもこの『The Good, The Bad, The Weird』に関して文章を書くならば以上のようなことを書くだろう。この映画は「満州」を舞台とした冒険活劇だが、よく見てみると西部劇とギャング映画とヤクザ(泥棒)の逃走劇がごっちゃとなった混成的な様相を見せている。主人公はそれぞれ地図をもって逃げ回る飛行帽をかぶった泥棒のユン・テグ、馬賊頭目で白いワイシャツと背広を着ているパク・チャンイ、そしてカウボーイ・ハットをかぶった颯爽としたパク・ドウォンの3人である。
 
 この3人はそれぞれ逃走、追跡、復讐という3つのコードを担っているが、またそれぞれが3つの映画的なコードをも担っていることに注目すべきである。つまり、彼らはそれぞれ西部劇、ギャング映画、追いつ追われつの逃走劇というジャンル性をそれぞれ担っており、その3人が絡まることで映画はジャンルの混交性を帯びていく。
 
 「満州」が舞台であることはこの映画を成り立たせるための必須の条件である。「満州」には朝鮮からの逃走者(ユン・テグ)がおり、それを追ってきた賞金稼ぎであるパク・ドウォンがおり、そして復讐のためにやってきたパク・チャンイがそこに呼び寄せられるようにしてやって来ている。この逃走・追跡劇、そして復讐劇、を成り立たせるために「満州」は欠かせない舞台であるのである。
 
 「満州」はある種ファンタジーの舞台でもあった。日本や朝鮮では叶わないような夢を追ってやって来た男たち、女たちがいたのが「満州」という土地である。夢の中には政治的なものもあったし(独立軍)、一攫千金という野望や、広大な大陸で成り上がると言う夢もあったろう。馬賊、賞金かせぎ、一攫千金の泥棒、といったこの映画の登場人物たちもそれらの「夢」を表象している。その意味でこの映画は「満州」を舞台とするファンタジーでもあったのである。
 
 この映画が血湧き肉踊る冒険活劇であるのは、その広大な「満州」の平原で、男たちがそれぞれの「夢」と宿命を背負って精一杯に逃走し、追跡し、復讐するからに他ならない。特に後半での平原を舞台とした追跡・逃走のシークエンスは見るものの視線を釘付けにする。日本軍、馬賊、パク・チャンイ一味、パク・ドウォンが入り乱れるこの追跡劇は痛快で有無を言わせない迫力がある。
 
 最後、3人が目的地にたどり着き、そこで3人の生き残りを賭けた決闘が行われる。そこでも逃走しようとするユン・テグ、金を見て勝負に乗るパク・ドウォン、復讐のためにすべてを捧げるパク・チャンイという対比は鮮やかである。結局、3人の勝負はどうなったか。3人相撃ちでその場に倒れこんで、その横で石油が吹き上がるのを見せて映画本編は終わるが、エンドロールではユン・テグは生き残り賞金額が大幅に上がったこと、また賞金かせぎのパク・ドウォンも生き残り彼を追い続けるだろうことが暗示されている。
 
 この映画は「The Good, The Bad, The Weird」と3人が並列されているが、実は「The Weird=奇妙な奴」が生き残る物語であるのである。奇妙な奴とは、ただコミカルな演技だけをするから奇妙なのではない。常に逃走しながら、しかも「指切り魔」としての残酷で冷酷な過去を持っているそのキャラクターは、正体不明な不気味さをも抱えている。そのキャラクターによって彼は生き残り、次の逃走を準備していくのである。彼の逃走は終わりなき逃走なのである。
 
 ユン・テグは飛行帽をかぶり赤い皮のベストを着てソックスをはいた「奇妙」な扮装をして登場するが、この扮装は彼の雑種性を表しているだろう。何でもその場のものを取り入れ、雑種的に生きるキャラクター。彼には他の2人のような正当な映画的アイデンティティが存在していない。西部劇、ギャング映画という正当なジャンル性はそこには存在していないのだ。ただ、その場にある小道具を何でも取り込み、シリアスからコメディまで映画的なアイデンティティを縦断する彼の中には、映画のジャンル性を批評する批評性と、別の言い方をすれば不定形でモンスター的な不気味さ/正体不明さが存在していたと言っていい。ソン・ガンホという俳優でなくてはなしえないジャンル縦断性であり、逃走し続ける姿であった。