震災日記29
久しぶりの震災日記。仙台では、この頃は目に見えて新しい動きということは少なくなっている。大きな被害を受けた施設や商店が復旧を終えて、次々に再開している所でほぼ街中に行くと以前の賑わいを取り戻したように見える。ただ、目に見えたニュースのようなものはないとは言え、動かない非常事態が延々と続いているといった感じだろうか。そろそろ100日経ったというのに、今でも毎日死者の捜索は続いているし、死者数は何十人単位でいまだに増え続けている。
だからまだ手放しで復旧を喜べない気分はあるし、非常事態と平常の生活とのバランスの保ち方が難しい所がある。基本的にまだ喪に服している気分が続いているし、しかし時には平常生活モードで明日のことを考えていたりもする。
この週末は九州で比較文学会の全国大会があるのだが、そんな次第で出席を遠慮することにした。まだ遠出する気分ではないのである。もう少しおそらく数ヶ月経って、被災地の復旧が進んでからでないとなかなか出かける気分にはなれないだろう。
上に挙げたペ・ヨンミ氏の論文によると、関東大震災で朝鮮人の入国者数が激減し、それが以前の水準に戻るのには3年を要している。色々条件が違うとは言え、今回の震災の被災地の復旧もほぼ3年という時間がかかるだろう。あるいは条件はもっと悪いかもしれない。
3年とは行かないが、少なくても夏くらいまではもう少し被災地に寄り添って、ここを離れないでおきたいという気持ちである。
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今回の震災によって、以前の震災――この前の阪神大震災、そして関東大震災――のことが急に身近に感じられるようになった。特に関東大震災のことがこの頃気になっている。
関東大震災は大正12年(1923年)に起きている。復旧に3年以上かかったとすれば、大正の後半は「震災後」の時期であったわけだ。そして1926年からの昭和は、「震災後」を引き継ぐ形で明けたということになる。
震災後のモダニズム文学運動や、芥川龍之介の自死などと言ったことは、そのような意味で「震災後」の事件だったわけだ。芥川の晩年は「震災後」という影響圏から考えることができるだろうか。
普通、文学史的には震災後の都心部の都市計画によって、新しい街並みができてそこにモダニズム運動が花開いたというように整理されているが、もう少し「震災後」の文学としてのモダニズム文学運動の性格を考え直すこともできるかもしれない。
また、昭和に入ってから特に満州事変を契機として、アジアという地域が問題となり、一方で「日本主義」が流行してくるわけだが、そのような流れの契機も元をたどれば「震災後」に行き着くのではないだろうか。
今回の震災でも「日本主義」とも言うべき、「日本」への回帰、「日本」の美点への再評価といったことが起きている。おそらく関東大震災のときにも同じような情緒は存在していただろう。そのような情緒が「日本主義」へと、そして「アジア主義」へと連続していったと見られるのではないだろうか。
大正期のコスモポリタニズム的な雰囲気は「震災後」によって大きく屈折する。その後の流れは「震災後」に育まれたと考えるべきだろう。横光利一のモダニズム、そして日本主義もそのような文脈から再評価できるかもしれない。彼は「震災後」の作家だったのである。