震災日記15 

 フェイスブックで書いていた震災日記をこちらで続行することにする。
 
 ようやく研究室の復旧・整理が一段落したので、いくらか平時の日常に復帰することができるようになった。そこでまずやりたいと考えたのが、ブログの開設であった。ホームページを立ち上げたい気持ちもあるのだが、そちらは面倒な作業があるのでひとまずはブログから…
 
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 日常に帰りつつあると言っても、その日常はひどく不安定なものである。余震に脅え、いつまた元の崩壊状態に戻るかもしれないという不安に取り巻かれている。研究室には余震に備えてあちこちに耐震マットやつっかえ棒をほどこしたり、ひっくり返ってもカップなどが割れないように配慮しなければならない。
 
 今回の震災での大きな教訓の一つが、われわれの日常というものがどんなに脆く不安定なものだったかを、これ以上ないほどに明快に示してくれたことにあっただろう。
 
 ここで認識の転換が起きる。以前、日常と考えていたものがむしろ多くの虚構や不自然さや様々な(不可視の)他者への被害のしわ寄せを抱えていたものであった、というように。福島での原発事故はまさにわれわれの日常がどのような構造の上にあったのかを示してくれた。
 
 コンビニに様々な商品が当たり前のように並んでいた光景も、それがどんなに多くの人々の労力と原料、交通機関、流通インフラ、などの物質的な土台の下に営まれていたほとんど虚構的なものであったことを、今回の震災は知らせてくれたのであった。
 
 その意味で、震災は図らずもわれわれの日常の無意識となっていたそのような物質的な土台やそれを支えていた(不可視の)他者たちの姿を白日のもとにさらしてくれた、と言ってもいいのである。
 
 むしろ物も出回らないで、燃料・エネルギーが不足する状況が、それゆえ本来の人間のあり方に近いのではないか、という感覚もその延長線上に生まれてくる。虚構をはずした人間の姿とでも言おうか。
 
 何にせよ、これまでの日常の自然さは切断されてしまった。そのことのもたらす効果は、これから観察していかなければいけない。