忠武路の上を飛ぶチャンサンコンメ(長山岬の鷹)

 
 1980年代から90年代の始めの韓国で活躍した独立映画製作集団チャンサンコンメについての資料です。cine21から。
 http://www.hani.co.kr/c21/data/L980817/1qb08h04.html
 
「チャンサンコンメに関する話はすでに現代の伝説である。作家・ファン・ソギョンの民衆史小説『張吉山』に黄海道の長山岬を守ってきた「民族鷹」が「外国勢の鷹」と戦って破る場面が出てくるが、口伝の語り、あるいは創作語りを無尽蔵に保有しているペク・キワン先生が長山岬の鷹の話をファン・ソギョンに聞かせたのが小説化されたものだと言われる。しかし、最近の世代が知っている長山岬の鷹はファン・ソギョンやペク・キワンとは関係ない、ある映画創作集団の名前である。かつて地下をさまよいもした彼ら長山岬の鷹がいまや一匹二匹ずつ忠武路(注・韓国の映画産業の中心地)の上を飛び始めた。『胸に突き出た刀で悲しみを刺して』(1994)で忠武路にデビューしたホン・ギソンの後に続いて、チャン・ユンヒョン、チェ・ホがそれぞれ『コンタクト』と『バイジュン』でデビューし、イ・ウン、チャン・ドンホンがデビュー作を準備中である。
 
 6月抗争(1987年6月の軍事独裁に対抗した民主化抗争)によってソウルの通りが熱く沸騰していた1987年7月、ナム・ヒソブ(独立映画協議会代表)、ジョン・ヤンジュン(映画評論家、プサン国際映画祭プログラマー)などが世話人となって大学連合試写会が成均館大学で開かれた。ここで顔見知りとなった一群の大学生たちは、翌年6月、長編劇映画を作ろうという謀議を始める。集まりを主導したナム・ヒソブ、ソウル大“ヤルラション”サークル出身のホン・ギソンと、『人材のために』で注目を集めた漢陽大のチャン・ユンヒョンとコン・スチャン(シナリオ作家)、『工場の明かり』を作った中央大のイ・ウン(ミョンフィルム代表、『日が西から昇ったら』監督、撮影中)、『その日が来れば』のソウル芸術専門学校チャン・ドンホン(『クリスマスに雪が降れば』でデビュー準備中)、『塀を越えて』のソウル芸術専門学校ジョン・ソンジン(『犀の角のように一人で行け』などの助監督)など、各大学から「一癖ある」熱血青年たちが意気投合したのである。製作する映画の主題は「光州とアメリカ」の問題。そのようにして『おお!夢の国』が生まれた。最初に共に議論した映画評論家イ・ヒョインとイ・ジョンハは民族映画研究所に移り、ソウル芸術専門学校出身のイ・ジェグ(『天才宣言』などの助監督)は後に合流した。
 
 この時までは彼らは「長山岬の鷹」ではなかった。88年に映画を完成させて当時芸術劇場ハンマダンを運営していたユ・インテク(企画時代代表)から上映の提案を受けた時ですら名前もない集団だった。「団体の名前でも一つないといけないようで」知恵を絞りはじめた。11月、独立映画協議会の事務室で8名が集まり討論の末票決まで行った。結局ホン・ギソンが提案した「チャンサンコンメ(長山岬の鷹)」が野の花、火花、などの候補を破って韓国映画運動史の1ページを飾る看板となった。これよりも前にイ・ウンは中央大で出講していた美術評論家で現在は全州大の教授であるイ・ヨンウクの紹介で『おお!夢の国』の音楽担当としてカン・ホンを連れて来たし、後にカン・ホンの紹介でキム・ジェホンとソ・ソンヨンなどが入った。現在も大衆音楽評論家として活発な活動をしているカン・ホンはその後チャンサンコンメが事実上消滅するまで運命を共にすることになる。キム・ジェホンはKBSのカメラマンとして活躍し、現在はチャン・ドンホンのデビュー作の準備を手伝っており、ソ・ソンヨンは後に女性映画集団バリトで活動した。この頃、イ・ウンは中央大映画学科の大学院入学試験の日にがっしりした体格の一人の女性に会い、チャンサンコンメ会員に引き入れた。彼女があの『ナヌムの家』を作ったビョン・ヨンジュである。
 
 『おお!夢の国』が終わって『ストライキ前夜』を準備する時、ホン・ギソンは忠武路進出を試みるために回りながらイ・ヨンベ(ケーウォン造形芸術大学教授)を紹介した。この頃チャンサンコンメの会員たちは「自然発生的な活動を反省し、運動性を強化するため」、目的意識的に大学映画連合の核心メンバーだったシン・ジョングァン、ミン・ギョンチョル、ソン・ウンヨンなどを戦略的に迎え入れるが、彼らは『ストライキ前夜』が終わると去っていった。彼らが政治的な原則を強調し運動性に比重を置いたのに対して、既存のメンバーたちは映画に対する技術的・現実的な対案がなければならないという判断の下に実用的な路線を曲げようとせず、葛藤が生じたのである。『ストライキ前夜』の公開に先立ち配給を強化するためにチェ・ホ、イ・ジャンギルも輸血した。『ストライキ前夜』の配給が終わる頃には会員が20名に上りもした。キム・スク(『閉じられた校門を開けて』配給の時に出会った全教組の先生と結婚)、キム・ジョンホ(韓国映画アカデミー卒業)、イ・チョンヒョン(シナリオ作家)、イ・ヨンス(シナリオ作家)、コ・ギルス(映画企画社)、ジョ・ミラ(詩人)、ファン・ギルジェなどが新たに入会した。オ・チャンファン(留学をし、その後不動産関連の仕事)が入って代表を受け持ちもした。これより前、『ストライキ前夜』完成に先立ちジャン・ユンヒョンはハンガリーへ留学に発ち、93年『閉じられた校門を開けて』を準備する時、ソ・ウシク(フリーシネマ)が入会し、オ・ギミン(『女子高怪談』プロデューサー)も会員だった。94年留学を終えて帰国したジャン・ユンヒョンとイ・ウン、オ・チャンファンがジャンイオ・プロダクション(注・3人の姓を取ったプロダクション)を作り独立し、カン・ホン、オ・ギミン、ソ・ウシクなどが残り95年までチャンサンコンメの名前を守ったが、活動はほとんどなかった。「誰も公式的に解体宣言を出しはしなかった」が消滅した状態。イ・ヨンベ、イ・ウン、コン・スチャン、カン・ホン、オ・ギミン、ソ・ウシク、ジョン・ソンジン、ジャン・ドンホン、コ・ギルス、ジャン・ユンヒョン、イ・ジェグなどは今は盆正月や慶事があった時に集まり酒を飲み交わす旧友として残った。」