小保方さん報道について

 
 小保方さんのスタップ細胞をめぐる報道については、初めから何か行きすぎで不快なものを感じていたが、その過熱ぶりによってむしろ現代の「病理」を見せるよい症例だと思うようになってきた。この小保方さん報道は、まさに現代日本の無意識的な「病理」を端的に現していると思える。
 
 若い女性研究者で、しかも彼女が「女性性」をある意味無防備に出していたことから、この小保方さん報道の過熱は始まっている。早稲田大学とハーバードで学んだ研究者であり、研究ユニットのリーダーとして実験を行い、ネイチャー誌に論文を発表し、…という有能な研究者としての人物像よりも、むしろ割烹着を着て研究室をムーミンのキャラクターで飾っているという「女性性」の方へと偏った(偏向した)人物像に焦点が当てられ、一人歩きするようになる。
 
 ここに第一の「病理」は存在している。「女性性」に関して焦点が当てられることで、彼女の人物像はきわめて身近で感情移入しやすいものとなり、簡単に言えば芸能人に準ずる報道が行われるようになる。有能な研究者であり、家族生活を送る統合された一人の人間としての人物像と言うよりも、アイドル化された存在となったと言えるだろう。
 
 この報道が、小保方さんのプライバシーへの侵害を生み、セクハラ的な性格を持ったことは、明らかである。芸能人については、現代日本の社会においてはプライバシー報道が許容されうるのであり、むしろ大衆の知りたい欲求に答えることが正義とされるからである。ここに第一の転倒があり、「病理」がある。
 
 そして第二の「病理」は、彼女のネイチャー論文が不正確な画像を用いていたこと、および博士論文中にコピー&ペーストをしていたという指摘に端を発している。捏造、引用疑惑である。さらに再現実験がうまく行かないという指摘が続いたことによっている。
 
 この疑惑について、今の段階ではどう判断するべきかは保留するほかはない。なぜならスタップ細胞の再現性という本質的な問題にまだ片がついていないからである。ただ、「病理」はそこにあるのではなく、またもや統合された複雑な問題に対して、単純な報道が、それも以前とは180度違った方向からされ始めた所にある。
 
 このネイチャー論文に関する捏造、引用疑惑は、おそらくグレーゾーンにあるものであり、若い研究者の論文なら1,2の問題点は指摘しうるものだと思われる。経験上、そう完璧な論文は存在しないからでもある。ただ、そのような捏造、引用疑惑が、科学界を巻き込み政治問題化した所に第二の「病理」は存在している。
 
 個人的な感覚からいえば、この捏造疑惑はアカデミックハラスメントアカハラ)に属するものであり、グレーゾーン的な問題は政治的に利用され、判断されうるものである。だから、小保方さんが疑惑に対して反論を行使し、再審査を要求したことはまっとうなやり方であると思われる。
 
 しかし、そのようなグレーゾーンに属するような問題に対して、メディアがこぞって疑惑を強調し、ここぞとばかりに小保方さん叩きに狂奔するようになった所に、先の第一の「病理」を裏返してさらに悪意をもってそれを強調したような「病理」が存在している。
 
 マスコミ報道は、こぞって疑惑に加担し、「クロ」である印象を与える方向に急展開した。グレーゾーンの問題に対して、一方的に加担し叩く態度である。このことは、最初の「女性性」を強調した報道と、実は相通じる態度であり、そこには総合的で統合された人間像や、問題の全体像を描き追及する態度は見られない。断片的な人目を引く報道によって、アイドル化したり、悪魔化したりするようなきわめて末梢的で偏向した報道態度がそこには存在しているのである。
 
 そこには悪意があり、セクハラとアカハラの交じり合った構図がある。若い女性研究者の未熟さが強調され、さらにはスタップ細胞自体を詐欺的なねつ造であるかのような報道まで現れている。
 
 ここには単純化があり、複雑な問題を簡単に白黒つけてしまうような怠惰がある。「女性性」を先に強調して芸能人化したのとまったく同じ手口で、「女性性」の別な側面――研究者として未熟でさらには資料を捏造するような悪事を行う――が強調されているのである。
 
 ここには先の無邪気な「女性性」への強調よりも、「女性性」への無意識の差別が存在している。その意味で悪質な「病理」と言うべきである。
 
 昨日の記者会見で、小保方さんはスタップ細胞の再現性については確証があると述べ、自信を示した。様々な疑惑があるにせよ、その問題こそが問題の本質なのであり、論文の疑惑などなどは二次的なものにすぎない。マスコミを巻き込んだセクハラとアカハラの大洪水の中で、小保方さんが問題の本質をはっきり把握していることに、安堵した。やはり有能な研究者である。マスコミと現代日本社会の「病理」に負けずに、研究者としての道を彼女がまっとうしてくれることを心から祈っている。気丈で悲壮な昨日の会見を見て、彼女ならそのことができるものと確信している。